
カルトからの超越。
2025年2月26日。
私の中にこの言葉が突然あふれてきました。
カルトとは何でしょう ?
一般的には宗教的グループのことを指しますが、例えばここ日本の場合にはスピリチュアルな活動をするチームにおいても、「カルト」認定がなされなくても十分カルト足りうる組織がたくさんあるように感じています。
また、精神活動とは関係のないチーム、グループにおいても何らかの「信仰」「信奉」がその活動の柱になっていればカルト化したチームととられてもおかしくない何かがひそんでいる場合があるのかもしれません。
私の理解の範疇でカルトの定義を簡単に説明すると、
□ カリスマ的リーダーが存在する
□ メンバーはこのリーダーの考え方を信頼し、次第に妄信するようになっていく
□ 自分たちと異なる見解のメンバーのことは意図的に
あるいは無意識に排除し、相手に居場所を創らせないようにする
といった形でしょうか。
カルトのメンバーはたいていの場合、
□ 私たちのリーダーは素晴らしい人物で私はリーダーをこころから信頼しています、
尊敬しています、( 時に ) 崇拝しています
と言います。そのうえで、
□ 幸いなことにわがチームはカルトとは程遠いところにあります。
リーダーの質によるものなのかもしれません。
この一生のうちでそんな本物に出会えるなんて感謝以外のなにものでもありません。
と加えます。
心理学的にみると、いえ、私も深く学んではいませんが、カルトチームのリーダーとメンバーは自己同一化という現象に陥りやすくなると言われています。
素晴らしきカリスマ・リーダーと自己同一化した自分。リーダーが素晴らしいのだから自分も素晴らしい。その良さが認識できない人は私たちよりも劣る存在だ。
カルトメンバーになると、こうした「差別意識」と「優越感」、さらにそれと裏腹の「劣等感」を無意識のうちに自分の中に抱くようになるのですが、本人はなかなかそのことに気づくことができません。
そうしてどんどんそのカルトにはまっていきます。
それがカルトのカルトたる所以。
自分の外側の何者かに心酔する、ということは = カルト化したチームのメンバーです、と宣言しているようなもの。
実は、これまでの世界は必ずといっていいほどカルトチームに導かれ、結果、必ずカルトメンバーになって、無意識のうちにカルトチームを強化する働きをさせられるようになっていたのではないか。
どうやらそれが昨日、私の中にあふれ出てきたことの本質のようです。
数年前、私はスピリチュアルにはまったことがあります。
周りにはスピリチュアル仲間がいっぱい。
当時私はそれなりに人気ものでした。楽しい毎日が続いていました。
ところがある日、ふと、「本当にこの生き方でいいのだろうか」と疑問がわいてきて、となると周りの人のちょっとした「ウソ」が目につき始め、「えっ、この人、こんなこと本気で思っているのかしら」「ここにずっといたらヤバイかも」と感じるようになっていったのです。
みなさん、それはそれは愛想がよくて、穏やかな口調と優しいまなざしで、みぃんな一緒、みぃんな仲間、みぃんなひとつをことさら強調し、「あなたはひとりじゃないからね」と寄り添いのほほ笑みと共にそばにいてくれます。そして徹底的に私をもちあげる、「阿部さんはすごい」「阿部さん、最高」「阿部さんじゃないとそんなことできない」などなどなど。
何かが起こると「友達じゃない」と言ってさっと助け船を出してくれる。
ありがたいけれど、一人で解決したい時もあるし、ほぉっておいてほしい時もある。
いま思えば過剰な親切心。ご本人たちは「自己犠牲」と思っていたようです。
何かが違う、ここは私のいる場所ではない。
そう思って彼女たちとの関係をひとつひとつクリアにして、時間をかけて自分の中で卒業を重ねてきた結果、
「そして誰もいなくなった」。
そこからの人生、それほど大きなつまずきは起こらず、またそれまでは病気とまではいかない未病程度の体調不良がデフォルトのような体質だったのに、そこそこ、そこそこ体調の良い日が続くようになって、もちろん調整の範疇の体調不良はいまだに起こるけれど、それまで必要としていた大量のサプリメントもスピリチュアル・グッズの類も卒業できたし、何より意識が格段に広がりました。
私は人間が大好きです、ことさらにさみしがりやです、けれど無理やり誰かとつるまなくても普通に生きていけることがわかりました。夫婦に関してはつるんでいるということになるのかもしれませんが、つがいなだけでつるむ、というとは少し異なるような気もしています。
彼女たちとの出会いと別れのお蔭でいま、気持ちは日々のアップダウンはあるものの安定期。
人間ですから欲望はありますが、強い渇望に苦しめられるということは少なくなりつつあります。
この宇宙のことは解明できていないことの方が多く、ということは精神性、スピリチュアリティーにおいてもわからないことの方が多く、「これをすれば幸せになれる」とか「こういう考え方をすれば楽に生きられる」とか、いやいやそんな定型の世界ではないだろうということをこころの底から味わうことができているというのが私の現在地です。
もちろんこれが終着地点だとは思っていません。まだまだ、まだまだ、です。
何が言いたいのかまったくわからない内容ですが、私は私自身もカルトメンバーとして少なからず貢献してきた過去をしっかりと受けとめ、抱きしめ、もうそういう世界に身をおかなくてよくなったんだ、と明確に自分自身にメッセージを出せた、それが昨日、「2025年2月26日」のことだったというご報告になりました。
26日。
私の最愛の友、本来最愛という言葉はエゴからできたものだと思うので、本当は別の表現をしたいのですが、きょうの時点ではまだ浮かんできていません、その最愛の友、いまは亡き愛猫・海・かいの月誕生日でした。
この「愛猫」という表現も今後異なるものに変わっていくかもしれません。
海の誕生日は1月です。けれど1月にはまだこの内容は執筆できなかった。
一か月後のきょうだからこそ、記すことのできた内容です。
当エッセイ執筆自体、ずいぶんと間が開きました。執筆したいテーマは次から次へと浮かんでいたのですが、なぜか「マテ」のサインが出ていたようなのです。
いま、この星には大きな変換期が訪れていることを感じます。
自分の意識がどれだけアップデイトできるのか、正直私には私の行く道が見えません。
けれど長い間お世話になったカルトの時代は終わった、同時に何かが始まった、2025年2月26日、私の中で。
この、私にとって過去最高のメッセージは、海がもたらしてくれました。
海と出会えたからこそ、そして海がいなくなったからこそ私はいまここにこうしていられるのです。
※ 久々の当エッセイ執筆で文章が流れていません。が、それがいまのベスト。
わがマンションの植栽「河津桜」、一本はすでに満開。その他は少しずつ蕾が膨らんでいる段階です。また、マンションのシンボルトゥリーと私が勝手に決めている「ミモザ」もすでに開花済み。
日本列島、まだ雪深く足元が大変なところも多い中、わが街は一足早い春の装いです。
浮かれていると春の嵐にとばされてしまいそうなので、しっかりと大地に接地して生きていかないと。