きょう、2024/11/05は歴史的一日となることでしょう。
さて、サイレント・マジョリティ。声高に叫ばない人々、またはその類の魂。
先日のハロウィンのイベントを通じて、私はひとつのメッセージを感じ取りました。
それは渦巻の魂、「ケルト」な魂のこと。
あえて日本語をおかしくしています。
「ケルト」な魂とは、この母子里でいうところの「縄文」な魂のことです。
ケルトについてにわか勉強です、私はまったくこの世界を知らない。
けれど「悪魔崇拝の儀式」と言われているハロウィンのルーツを調べるうちに、もしかして「ケルト」な魂も「縄文」な魂に韜晦した、そもそものこの地球の先住的な魂と同じ流れなのではないか、という気がしてきたのです。
何かを曲解されているのでは ? ドルイドもケルトも。
なんのため ?
支配政治のため。そのツールとして、虚構の世界の創造。
ちょうどこの国の縄文や東北日高見国のこと、それに関連するだろう蝦夷や熊襲、隼人、あるいは「サンカ」とされる人々たち、「鬼や妖怪、化けもの」とされる人々の魂の本質にフタをして、あたかもこの国は「太陽の国」であったかのように歴史を創造し続けた魂があるように。
もちろん私の魂がそれらと一切関わりがなかったとは思えませんけれど。
ケルトについて調べてみてわかったこと。それは彼らが「生命の循環=生と死と再生」の思想や「死(闇)から始まる」自然観というものを抱いていた魂だったこと。彼らには死にいかされるという大前提があったらしいこと。
そもそも悪魔崇拝とか人身御供とか、それらは二元論が成立してからの概念であって、はたしてケルトな魂の真ん中に二元論があったのか、もしかしたらそれらは縄文な魂と同じように、「すべてはひとつ」という世界観の中での哲学をはらんでいたのではないか、そんな素朴な疑問が浮かんできました。
悪魔崇拝にしても人身御供にしても死と生をわけ、生の方が優れているという考えにのっとったものではないでしょうか ? 天使より悪魔が優れているとか ? 天国と地獄があって、天国に行くことだけが素晴らしいことだとか ?
※ ↑に追記 【 悪魔崇拝、人身御供 】に関して、いまの私はこれ自体をジャッジする立場にはない、という意味で記しました。
渦巻思想ともいえる「ケルト」な魂は、すべてが循環の一部と捉えていたはずですから、「善と悪」「光と闇」にヒエラルキーを設定したりはしていなかった可能性はないでしょうか。もしそうだとしたら、「悪魔崇拝」にしろ「人身御供」にしろ、まったく別の価値観で捉えられていた可能性があります。一元論で見る世界と二元論で見る世界。
フィルターが違えば見える世界はまったく変わってくる。
そう考えると「ケルト」な魂の世界観がらせんエネルギー、水神エネルギー、龍蛇神エネルギーを携えた縄文な魂と親和性が高かった可能性が自然とうかびあがってきます。
ハロウィンが悪魔崇拝の儀式と言い出したのは、キリスト教原理主義グループだそうです。さらにそもそも「サウィン」といわれる、ケルトやヨーロッパの牧畜農耕文化の人々の、厳冬を生き抜くための祭暦をキリスト教・カトリックが自分たちの儀式として万霊節としたことが現在のハロウィンにつながっているといいます。
キリスト教から見たサウィンは、キリスト教が布教される以前の土着宗教の祭りになるため、異教徒(ペイガン)の祭りであることから、それらに上書きをして自分たちの祭りと置き換えた。しかもそれを「悪魔崇拝」として起源であるところのケルトそのものを卑しめた。
こんなカラクリが世界中で行われていたという事実に改めて驚かされます。宗教で世界を制覇しようとした魂が確かにあるということ。その一方でそれらがあったからこそ、いまようやくこのことに気づくことができたというのも本当のところです。
この列島、わが母子里でも同じようなことがくりかえされてきました。
臭いものにはフタをしろ。
けれどどんなにフタをしても臭いもののエネルギーがゼロになるわけではありません。むしろフタの下で濃縮され、熟成され、さらに臭いものとなって生き続けるのではないでしょうか。
エネルギーの息の根を止めることは、私たち人間にはできない。
それができるのは「創造主」とされるこの宇宙と地球の根源システム・エネルギーだけのはず。
まして「臭いもの」とはフタをした側にとっての「臭いもの」なだけであって、宇宙システム、地球システムにおいてそれらはフタをしたものと同じ価値があるはず。
彼らは フタをされたのと同時に自分の本心や才能・地位などをつつみ隠し、実際に身を隠し姿をくらますことで生き延び続けていたのかもしれません。
「サイレント・マジョリティ」
声高にニュースや情報を伝えている人たちの顔をみてみましょう。声を聴いてみましょう。彼らの不安が伝わってきませんか。
どんなに自信たっぷりな表情をしていたとしてもその真ん中は宙ぶらりんなのかもしれません。
その姿は私自身の姿でもあるという側面も見逃してはならない……。
先ほど所要で郵便局に行ってきました。
来年の年賀はがきに「蛇」の姿が。
そこにはアメリカ独立戦争時の旗で今でももっとも人気があるとされている「ガズデン旗」と同じように「三回転半」のとぐろを巻いた蛇の姿が描かれていました。
「Dont tread on me」(俺を踏みにじるな)。
「ガズデン旗」にはそう書かれています。
この「俺」こそサイレントの象徴なのではないでしょうか。もちろんそれは「蛇体」「蛇神」エネルギーのこと。ここでの「俺」は性別は問わず。なぜなら「me」を「俺」と訳した人にはそこに何らかの意図が働いているから。
蛇そのものが宇宙根源神と言っているわけではありません。そのエネルギーが宇宙根源システムをあらわしているのでは、という理解がいまの私の真ん中だということです。
時が来たら、さらに意識は変わっているかもしれません。まったく異なる方向に。
※ いつもはもっと書き込むのですが、きょうはあえてこの辺でやめておきます。
ケルトに関してはまだ「未知」の部分が多いので、縄文な魂とのつながりが明確に理解できてはいない段階での執筆です。
ただし、フタをされて踏みつけにされた魂のエネルギーが私に何かを訴えているのは感じています。もしかしたらそれは私自身の魂の力なのかもしれません。
「ペルソナをはずせ」
2024/11/04に私の真ん中から浮かんできた言葉です。
◇ 参考
『ケルト 再生の思想――ハロウィンからの生命循環: ハロウィンからの生命循環 』(ちくま新書)
サウィン祭・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クリストファー・ガズデン フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』