思わぬところでつながりました、水の神、航海の神。そう、その実態は「弁財天」であり、「瀬織津姫」であり、といったところでしょうか。
ここで「神・カミ」とされている存在は便宜的記号として表現されているもの。いわゆる人格神としてのそれではなく、宇宙システムのエネルギーの特徴を「神・カミ」と記号化していると私は捉えています。
わが街は漁師町だった浦安の「新町」と呼ばれるエリアにあります。ディズニー・ランドの開発と共に創られた人工エリア。
当エッセイで私はずっとわが街と「弁天」「弁財天」「サラスヴァティ」との関わりについて記してきました。
昭和に入ってからの埋立地なので神社・仏閣などは皆無。ところが私はいつからかそこかしこに「弁天」「弁財天」「サラスヴァティ」とつながるエネルギーのポータルがあるらしいことを感じ始めていました。
その中で最もハートに響いていたのは、弁財天の祠などがないのに「弁天」という地名のエリアがあるという事実。旧市街にある小さな寺町・神社エリアともいうべきところに確かに「弁財天」を祀った小さな社があるのですが、どうもそこではない、何も象徴めいたところがない「弁天」にこそ何かがあるのではないかと。
やっとわかったのは、その「弁天」こそ昔の漁師さんたちが名付けた地名だったということ。以前当エッセイで「漁師さんたちの潜在意識の中にある弁天とのつながりのポイントがそこだったのでは」と触れているのですが、その確信が得られました。
そのエリアには当初、下水処理施設として、その後汚水中継ポンプ場として稼働している施設が創られています。
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下水処理場とは、下水道の汚水を浄化し、河川、湖沼または海へ放流する施設のことである。日本の下水道法では、「終末処理場」という用語を用いる。下水処理場 Wikipedia より
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この働き、「瀬織津姫」の働きそのものではないでしょうか。
最初はここは漁師さんたち、同時に住民にとって水のカミ意識につながる大切な場所だった。漁師さんたちは「弁天」への意識を投影させ地名とした。
昭和になってこの土地に「終末処理場」という施設が創られた。おそらくそれは何者かによる「弁天」の力を封じ込めるための目的もあった。住民が「弁天」意識につながらないように、何が本物かわかりにくくするために。
けれどどんなに封じ込めようとしても「弁天」意識はゼロになるどころか汚水の再生という働きを通じて、その力はより強固なものとして再びこの地に蘇ろうとしている。タイミングを見計らいながらもそのエネルギーを住民の誰かが感じ取るのではないかと常に何らかのサインを出していたのではないか。
それに引っ掛かったのがたまたまいまの私。
ちなみに私の旧姓は「川上・かわかみ」。サラスヴァティ意識とのつながりが深いはず。そのお蔭なのか、私はずっと「弁天」「弁財天」探しともいうべき行動をくり返し続けてきたのです。
「神社には本物はいない、いたとしても何らかの形でデフォルメされている可能性が高い」
そう気づいたのが三年くらい前でしょうか。以来、神社巡りではなく、そうではない「弁天」「弁財天」のポータルを無意識の中で感じ続けてきました。
そしてようやくいま、「ポンプ場」などのような下水処理的施設のあるところこそ、「弁天」「弁財天」とつながるポータルがあるところで、それはその実「瀬織津姫」システムの活性化につながるところではないかと私の意識が認識することができたようなのです。
妄想といわれても仕方ありません、私自身はそう感じているというだけのことなので。
わが街にはもうひとつポンプ場があります、それは川の遊歩道の一角。その施設のすぐ上に橋があるのですが、おそらくほとんどの人は気づいていないだろう、女性の首からの上の像がモニュメントとして飾られています。
すぐそばに「船」のモニュメント。
髪の形からして、私はこれはシー・ウィッチ、セイレーンの魔女エネルギーの可視化ではないかと感じていました。
なぜポンプ場の上なのか。セイレーンの魔女は魔女などではなく、そもそもは海の女神、航海の神のこと。
彼らは「女神」を「悪魔」「魔女」に置き換えるのが得意です。
なぜならそれこそが「瀬織津姫」システムの記号化のあらわれだから。
くりかえしますが、「女神」も「瀬織津姫」も人格神ではありません、宇宙をつかさどる概念意識のシステムエネルギーのことを意味しています。私自身はこれを男性性、女性性の両性具有のエネルギーを携えているシステムと捉えています。
このことから私はひとつの仮説を立てました。
三次元でのこの世界に「汚れ」「穢れ」の概念につながるような施設が創られているとしたら、そこには本物が隠れている。その存在こそ、あえて二元論でいうのなら「聖なる」存在。その実は「聖、清でもあり、同時に汚れ、穢れでもある」存在。そしてその存在は目には見えないシステムとしてのエネルギー。
私たちが本物の聖、清を思い出せるように、いったん徹底的に三次元的「俗、汚れ、穢れ」の中に身を置いてくれている。この時の「聖、清」は私たちの知る概念とはまったくの別物。
本物を隠そうとするエネルギーを使って本物に気づかせようとしてくれている。
そのひとつの現象化として、下水処理場などの存在があるのではないかと感じました。大正以降にこの日本に創られたといわれるこの手の施設の大元は「清い水」があふれていたところなのではないでしょうか。
※ もしかしたら江戸時代にもこういう施設はあったのかもしれません。ただし、それはいまの「下水処理場」とは異なる概念のものだったことが推察されます ※
それはもしかしたら海の中かもしれないし川の中かもしれないし、清水のコンコンと湧き出る「水のポータル」だったのかもしれません。
これら「水のポータル」は世界各地にあるはず。なぜなら地球は「水の惑星」だから。
さて、表題の「マカオの航海の女神」。航海の女神といえばセイレーンの魔女=です、わが街と同じような歴史背景が感じ取れるかもしれません。
二年前、私たち夫婦はマカオを訪れました。その時に訪れた場所のひとつにマカオ最古の中国寺院「媽閣廟(マーコッミウ)」があります。なんでも約400年前に上陸したポルトガル人が「ここはどこ?」と地元民に尋ねたところ、「マーコッ(媽閣)」との答えがかえってきたことからそれを地名だと勘違いしたことが「マカオ(Macau)」の地名の起源になっているんだとか。
ここには航海の女神「阿媽(あま)」が祀られています。
「阿媽(a-má) 」とは台湾語でいうとおばあちゃんの意味なんだそうです。日本では「大地母神」のことを「ハハ゛」「ハハ」「カカ」と呼ぶ場合があります。同時にそれは「蛇」の古語でもあって、水の民は「蛇」「大蛇」「龍」エネルギーこそ、宇宙根源意識エネルギーと同一である「大地母神」エネルギーシステムのことだと捉えている潜在意識のあらわれなのかもしれません。
古代メソポタミアでは「お母さん」はシュメール語で「アマ」といっていたと言います。もしかしたら「おばあちゃん」と「おかあさん」、どちらにしても自分たちを創造してくれる「母」の意味とも取れなくはありません。
また印欧諸語においては「マー」は「母親」を意味する基本的な音節であり、しかも、マーそのものが「女神」の本源的な名称として崇拝されたとする説があります。
「マー」「母」「女神」は「大地母神」エネルギーとつながるポータル、あるいは「大地母神」そのものだった可能性が出てきます。
一方で、【アマ(amah/〈ポルトガル〉ama). もと東アジア在住の外国人家庭に雇われていた、現地人のメイド。 [補説]「阿媽」とも書く。コトバンク】という情報があります。
マカオにたどり着いたポルトガル人の多くは当初、キリスト教・イエズス会だったのではないでしょうか。もしそうであれば「大地母神」であるところの「阿媽(a-má) 」をメイドとしているところはなんとも見事なまでの暗喩といった気がします。なぜあれほどまでにイエズス会系教会がマカオに建てられているのか、巨大なカジノがあるのか、その秘密は「マカオ」の地名、特に「マ」の中にあるのかもしれません。
「阿媽(a-má) 」、おばあちゃん、おかあさん。今まで気づかなくてごめんなさい。気づかせてくれてありがとうございます。
私たちは水の星の住人です。水のカミの民です。水の根源は「地」です。水は人の母「海・あま ( うみの古称 ) 」です。
◇ 参考
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 アマ