人工と神工。
あえて対比で表現します。
人工とは、人工地震とか人工気象とか、陰謀論的にみるとその手のこと。
バクっというと、「人の手によるもの」という意味でしょうか。
一方、神工とは ?
こちらもバクっというと「神の手によるもの」。
この時の神とは人格神のことではなく、宇宙創造意識的エネルギーおよびその仕組みのことを意味しています。
ということは、実は人工も「神工」だという捉え方ができるかもしれません。
〇〇は人工地震だ。
一般によく目にするこのフレーズ、そう、人工地震であり人工地震ではない、同時に神工地震であり神工地震ではないのではないか、と二年位前から私はそんな風に感じるようになっていました。
念のため、【神工・しんこう】の意味を調べてみると、『 〘 名詞 〙 神の製作。 神が作ったと思われるほど霊妙な製作。 また、その製作品』となっています。あるいは『人間の技とは思えない、精巧でち密な工芸品や美術品のこと。鬼神きじんが斧おのをふるって、作品を作り上げたようだという意味。神わざ。名人芸 ( goo辞書 より) 』とのも記述もありました。
どちらも比喩的に使われています。この世のすべてのことは「宇宙創造意識による仕組み、システム」エネルギーによるものとしたら、「神工」の意味がこの比喩によってよりくっきりとしてくるのではないでしょうか。スピリチュアルな世界で使われる「神事」、「神仕組み」、これもまったく同じ。すべてが「神事」であり「神事」ではない、すべてが「神仕組み」であり、「神仕組み」ではない……。
さて、アンチケミカルの立場を主張する考え方があります。一般的には「ナチュラル思考」とか「自然派」とかそういう言葉で表現されています。
それらの主張はシンプルです、ナチュラルは善でケミカルは悪、あるいはケミカルよりナチュラルの方が上、との設定。
彼らの多くはナチュラルの方が波動が軽く、ケミカルの方が波動が重い、したがってナチュラルを志向する自分たちの方がケミカルを志向する人たちよりも人間として波動が高く上質、という捉え方をしているのが一般的です。
私も以前はナチュラル志向にはまっていました。ケミカルよりは自然由来のものを選びたい。
ところがある日、私は感覚過敏だし、犬猫とも暮らしているし、その結果たまたまより自然なものを選択しているに過ぎなくて、意識が高いとか地球意識に近い存在だとかそんなこととはまったく関係ないところにあるのだということに気づきました。
その時、一時的に無意識のうちに「意識高い系」を意識していた自分がいたことをはっきりと認識し、そう感じること自体意識が高くない証拠だと、自然にそんな考えが浮かんできたことを覚えています。
私はいま、脱縮毛矯正の途中で、さまざまなヘアケア剤、ヘアスタイリング剤にトライしています。
その中で先日「アーユルヴェーダ」の考え方にたどり着きました。
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アーユルヴェーダとは、五千年の歴史をもつインド・スリランカ発祥の伝統医療です。サンスクリット語のアーユス(Ayus/生命)とヴェーダ(Veda/科学)からなる言葉で、「生命科学」を意味します。生活の木 より
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なかなかよさげではないですか。
ところがへそ曲がりなのか、私にはいまひとつしっくりこない。
その辺のことは上記エッセイでも記しています。
再度調べてみました。
AIによると『 アーユルヴェーダとは紀元前8世紀頃のインド・ネパール地方でバラモン教のベーダ経典から生命に関する知識を集大成して生まれ、以下略 』となっています。もしそうだとしたら上記の『五千年の歴史』との差はなんでしょう。意識の体系化と言語化のタイムラグ ?
私の知る限りではアーユルヴェーダはバラモン教の僧侶たちが自分たちが神になるための概念を取りまとめたものの一部。彼らの思想はカースト制度にも反映されています。というより、彼らがカースト制度をつくったといってもいいかもしれません。
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アーリヤ人とは、前1500年頃、北西部からインダス流域に侵入した印欧語族の一派。前1000年頃、ガンジス流域に進出しインド亜大陸に広がってインド社会を形成した。
略
アーリヤ人の伝承であるヴェーダの神々への信仰からバラモン教が生まれ、そこからヒンドゥー教が発展する。また彼らの征服の過程で、カースト制社会が形成されたと考えられている。
略
もともと「アーリヤ」とは「高貴な人」を意味する彼らの自称であり、彼らは先住民を「ダーサ」(やがて奴隷の意味になる)として区別した。<山下博司『ヒンドゥー教とインド社会』山川出版社・世界史リブレット5などによる>世界史用語解説 授業と学習のヒント より
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彼らは自身を「高貴な人」と呼び、先住民を「やがて奴隷の意味になる」として区別しました。その意識体系の成果のひとつがカースト制度であり、アーユルヴェーダなのです。
もしそうだとしたら私自身がアーユルヴェーダを自分の柱とするのなら、それはある意味、優生思想、あるいは選民思想的なものがバックボーンになると捉えるのは不自然ではないはず。
彼らは常に自分が上、それは彼らこそが「神」だから。自身の意識の中で。「神」になるため自然を最優先で取り入れるという、ある意味もしかしたら「神である自分たちは自然さえ支配している」という、そもそものキリスト教の教えとも通じるような自然支配的概念があるのではないかと感じてしまいます。彼らはそれを自然崇拝と設定した、時代背景を考えるのなら、それが後に自然支配へと移行した ? それともそもそも自然支配に近い思想があった ? あるいは自分たちには自然を優先的に取り入れる権利があると考えていた ?
現時点では何かを判断するには材料が少なすぎる。
良い、悪い、を言いたいわけではありません、ただ事実としてそういう可能性もあるのでは、と感じているという意味です。もちろんアーユルヴェーダを自身の柱としている人たちを揶揄したり批判したり排除したりの意識はありません。またアーユルヴェーダそのものを否定する気持ちもありません。
それらをふまえたうえで、調べものをしていて「なるほど」と感じたのは、近代のアーユルヴェーダでは自然のもので髪を洗わないと悪い重い波動を引き寄せるという考え方をしているらしいことがわかりました。
※ ↓ 2024/08/26 訂正追記
上記【近代のアーユルヴェーダでは自然のもので髪を洗わないと悪い重い波動を引き寄せるという考え方をしているらしい】の記述について
私の誤解でした。ここではアーユルヴェーダは関係ありません。インドに実際にそういう捉え方をするチームがいるらしい、がより適切な表現となります。
↑ ここまで追記部分
つまり、ナチュラルな素材で髪を洗うと高波動になり、ケミカル洗剤で髪を洗うと低波動になるという二元論の考え方です。ということは、アーユルヴェーダの世界観はそもそもが「善悪二元論」であって、すべてが「〇」という一元論ではないのではないか。それともどこかで何かが重なって「善悪二元論」に傾いたのか。いずれにしても、どうやら彼らのそもそもの宇宙観は私が感じている「〇」ではないのかもしれない、ということがみえてきます。
私はケミカル信奉ではないし、ナチュラル信奉でもない。たまたまその時の自分にとってのベストがナチュラル寄りであることが多いとしてもナチュラル絶対という意識はなくなりました。
かつてそういう自分がいました、だからこそいまはナチュラルでなければという縛りがなくなってくれたのかもしれません。
ケミカル、ナチュラル、人工と自然。
私たちの言語で表現するとそうなるのでしょうか。では宇宙の言語で見たらどうなのか。
おそらく、「ケミカル」も「ナチュラル」も「人工」であり、同時に「神工」なのではないでしょうか。そういってしまうと何もおもしろくなくなるし、何も意味がなくなるかもしれない。
けれど「ケミカル」vs「ナチュラル」の対決はある時期においては大切なことではあったけれど、いまはもうそれを超越してもいい頃なのかもしれません。
アーリア系バラモンたちの「神」はピラミッド社会を構築した「男性神」エネルギー。彼らが体系化した多神教の形をとっている「ヒンドゥー哲学」からさらにさかのぼったインドの先住民たちはもしかしたら私たちと同じように「水の神」「大蛇神」エネルギーと共にあったのではないでしょうか。
自らを「高貴な人」としたエネルギーに奴隷視された民とひとつになっていたエネルギーはピラミッド型のそれではなく、ウネウネと地面を這うような、あるいは時にとぐろを巻くようならせん状だったのではないかと。この母子里のネイティブがそうであったように大いなる「〇」とされるエネルギーとひとつになっていた民がかの地にも確かにいた。
もしこの仮説が成り立つとしたら、すべての自然とともにあることを私たちは再現できるのかもしれません。たとえその名称が「ケミカル」というものだったとしても、全宇宙の法則内の一部であることに変わりはないはずですから。
合成ケミカル洗剤ではなく、それ以外のものを使った洗髪形態を「自然派シャンプー」というそうです。それらを区別するだけでなくあえてヒエラルキーをつくる行為こそ、アーリア系、あるいは男性性、男性社会的といえるかもしれません。
より自分に合ったもの、いまの選択肢の中のベターなもの。そんなものを一つ一つ試してみようと思います。
シャンプーやスタイリング剤にヒエラルキーは必要ない。ヒエラルキー時代を経験したからこそそう思えるのかと。
「自然派」という「非自然派」の呪縛からの解放。
またひとつ「大地母神的女神性」エネルギーのめざめ、かもしれません。
※ きょうも暑くて頭がクリアではありません。
私はなぁんちゃって、ですがヨーガを15年間体験しました。ヨーガは大好きでしたが自分の中に違和感を感じ、いまは距離を置いています。
さて、当エッセイのカテゴリがうまく画面に反映されませんでした、コピペでなんとか体裁を整えました。
もしかしたら、何らかのアップデートが進んだのかもしれません。