まがいもの文化の終焉、そして…… はじまり。

2024年7月25日。

 

記念すべき日となりました。

 

私たちはきょうから「まがいもの」を選ぶか「本物」を選ぶか、その選択が私たち自身に委ねられることになったのではないかと、そう感じています。

 

さて、突然ですが私はくせ毛です。

 

「癖」から「曲者、癖者」という言葉が浮かび、その後、「まがいもの」という言葉が続きました。

 

ネットで「癖」について調べてみました。

 

□ 偏って多いほどの(普通でない)仕方を繰り返して、ついた習慣。習慣となっている、偏った傾向・しぐさ。また単に、偏った傾向・性質

 

□ 曲がったり折れたりした跡が物に残ったもの

 

□ やまい

 

□ 無意識に出てしまうような、偏った好みや傾向。習慣化している、あまり好ましくない言行

 

□ 一般的でない、そのもの特有の性質・傾向

 

□   折れ曲がったりしわになったりしたまま、元に戻りにくくなっていること

 

□ 人や表現における欠点

 

主だったところはこんな感じです。

 

□ やまい、欠点、あまり好ましくない言行

 

とあります、そう、全般的にみて癖は「悪いもの」という設定がなされていることがわかります。また、

 

□ 曲がったり折れたりした跡が物に残ったもの

 

ともあります。

 

癖は曲がっていて「悪いもの」。では真っすぐが「良いもの」なのか。

 

さらに、

 

□ 一般的でない、そのもの特有の性質・傾向

 

というものもあります。

 

ということは「一般的なものが良いもの」という認識が設定されてるということ。

 

それは「曲がっていないもの」、つまり「真っすぐ、または直線的なもの」ということです。それが「一般的」ということは、= 定型化された絶対多数 = 王道という意味と受け取れなくはありません。

 

本来、癖に「良い」も「悪い」もなく、ただ「癖」があるだけ、ただその人の個性なだけのはずなのでは。

 

それを「真っすぐ」「直線的」「一般的」と比較して「悪い」ものとしている、中には「やまい」とか。

 

「癖」という言葉だけ見てもその価値の本質がゆがめられていることがわかりました。

 

この国には長く「ストレート信奉」というものが根付いていました。髪の毛についていえば「うねうね、くるくる、らせん状」のものは「真っすぐさらさら、うるつや」より「悪く」、場合によってはそれは「欠点」であり、しかも髪本来の姿から見れば「やまい」ですらあると。

 

誰が決めたんだ。

 

素朴な疑問。

 

これが権力者の定めた「癖」観です。

 

これを俯瞰でとらえると権力者にとっては、

 

□ 癖がなく、無個性で直線的で真っすぐで定型化された群衆の一部、または一人である民

 

が好ましいというとりまとめがなされていたということではないでしょうか。それはもしかしたら、

 

□ 自分に従う従順なその他大勢

 

の意味かもしれません。個人的に、ですが、その特徴的なものとして「大和なでしこ」が設定されたと捉えています。

 

「大和なでしこ」は朝廷側、つまり権力側にとって都合の良い女性のシンボルのことであって、女性本来の魅力を表現したものではないだろうとの思いから。

 

ちなみに「大和」というのはこの母子里の土着エネルギーとは異なるエネルギーの記号、サインとする説があり、いまのところ私はそれを採用しています。のちに変わることもあるかもしれませんが。

 

「大和・やまと」、大変お世話になりました ~ 地名に隠されたヒントを探る

 

おさらいをします。

 

私たちは「癖」を悪いものとして認識し続けてきた。それは本来はその人、あるいはモノの個性であり特徴、特性であるだけのこと。

 

そのほか「癖」のつく言葉で浸透しているもの。

 

□ 難癖をつける

□ 性癖

 

もちろんまだまだあるとは思いますが、それらはたいてい「悪い」意味で設定されています。

 

難癖はつけてもつけられても気分が悪いし、また性癖とはたいていの場合、異質、悪質なものという意味で使われ、しかも犯罪などに絡めて使われることが多いもの。

 

「彼ら」は「癖」「癖のある人、モノ」が怖くて仕方ないのです、それを認めたくない、だからあえて「癖」にネガティブな色をつけ、その価値そのものを歪曲したのかもしれません。

 

あえて「彼ら」としました、それは私たちの中に眠る権力志向の強いエネルギーのこと。この世の常識でいうと「男性性」のエネルギーと設定できるかもしれません。

 

「彼ら」は自分に都合の良い世界観をつくり、それが「本物」であるかのようにふるまってきました。

 

けれどそれこそが「偏り」のある「まがいもの」だった可能性はないのでしょうか。

 

この宇宙のエネルギーを二重らせんとする説があります。それは私たちのDNAと同じ形状をしていると。

 

らせん、つまり「うねうね、くるくる」です、「真っすぐ」ではありません。しかも「二重」。しめ縄のイメージでしょうか。

 

あくまでもひとつの説としてですが、あるデータによるとこの地球では直毛は29.1%、それ以外の70.9%はウェーブヘアやカーリーヘア、または私たちになじみのあるところの「天パ」だったり「くせ毛」だったりするとされているんだそうです。

 

日本人だけをみてもさっと調べた範囲で大体7割ぐらいが髪に何らかの「くせ」があるとしている説がほとんど。

 

もちろんここで「直毛」と「くせ毛」の競争をしようとしているのではありません。「ヒエラルキー」をつくることはすでに超越した感覚だと捉えています。

 

ただ人類の約「7割」がくせ毛なのに、特にこの国ではなぜ「ストレート信奉」が根付いているのか、無理やりそこにおさめたい何者かがいたと考えても不思議はないのではないかと。そこには金銭的メリットだけではない何かがあったのかもしれません。

 

私たち自身、「くせ毛」の人が「くせ毛」という言葉を使うとき自虐的ニュアンスが含まれていたことに気づきました、「くせ毛 = よくないもの、劣ったもの」と。もちろん無意識のうちに潜在意識にそうすり込まれていたということなんでしょう。

 

こういう「偏り」を一つ一つ明確にして「本来」の姿をあぶりだす。

 

そういう意識的作業が私たち一人ひとりに委ねられているような気がします。チャンスとして、ギフトとして。

 

そのために一見「本物」らしきその実「まがいもの」がいままでのこの世界の王道を形作ってくれていたのかもしれません。同時にその瞬間瞬間の本物としての側面もあわせもって。

 

いま、一人ひとりが個人レベルで何かをはじめる、そのために。

 

念のため、「直線的」と「癖」にヒエラルキーがないように、「ストレートヘア」と「くせ毛」、また「まがいもの」と「本物」にもヒエラルキーはないということが大前提であることをお伝えしておきます。

 

どちらもがあってもつれ合ってのこの世界なのでしょうから。

 

だから、「二重らせん」。

 

 

 

※ 暑くて頭がぼぉっとしている中での執筆です。文章が「うねうね」しています。

 

そういえば「くせ毛」って抑圧するとよけい癖が強くなるそうです。

 

うねうねしてこその「癖」ということなんでしょうか。

 

なるほど。

 

癖の抱いているエネルギーをそこにそのまま放射するために私たちは生を授かったのであって、「薬剤によって押さえつけたり無理やり違う方向に仕向けたり」は私たち本来の目的ではないということ ?

 

私たちの「くせ毛」から放たれるらせんエネルギーの妙。

 

あるがまま、流れるまま。

 

 

 

 ◇ 参考 

 

goo辞書 くせ、癖

 

直毛とくせ毛の比率は複数サイトを参考にしました。どれもいまひとつ出典が定かではないのであえて参考サイトは記しませんのでご理解いただければと思います。

 

 

 

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