いよいよ髪断食のステージに入りました。
といってもそれほど深刻、真剣なものではなく、断食という言葉もどうも違うな、と感じつつ、いまのところ割と一般的な表現なので一応それを採用しておこう、というレベルです。
私は15年位前に肌断食を採用し、いまも継続中。
定義はわかりません、私自身は肌につけるものを極力減らすという考え方をもとに実践しました。
具体的には、
□ 化粧下地、UVケアなど使わず肌に直接ファンデーションを塗り、メイキャップはごくごく普通に
□ 化粧落としは洗顔せっけんのみ。マスカラなどが残っているときはオイルをコットンに浸してにじませてふきとる
□ 基本何もつけずに寝る、ただし季節によって、また肌のコンデイションによって化粧水だったり、クリームをごく少量ポイントづけする
といった方法。最近になって「ファンデーションの油は油で落とす」という情報を知りましたが、実践にいたらず。今のところ私の肌にはトラブルなし。
日に焼けやすいのでこの時期はまるでリゾートに旅行したかのように真っ黒になりますが、それでもシミ・ソバカスなどもあまりできず、ほうれい線などのシワも目立つほどではありません。
同じ期間、ボディ・ソープもほとんど使いませんでした。ボディにミルクやクリームなどもつけません。ハンドクリームもほとんど使いません。
冬場に少しカサカサになる箇所があらわれた場合のみ、白色ワセリンや蜜蝋系クリームを少量使います。
これは特に主義主張があるわけではなく、単に「私にとって面倒くさくない方法」を実践しただけです。
そんな流れもあってなぜか15年ものタイムラグがありますが、今度は髪断食かな、と。
私は20年以上縮毛矯正の施術を受けてきました、その間はシャンプーとトリートメントのみ。縮毛矯正の終盤はシリコンフリーのものを使っていました。ヘア・アイロンはほとんど使ったことがなく、ヘア・カラーもしたことがなく、そのためなのか自分ではあまりダメージを感じたことがありませんでした。
ところが「脱縮毛矯正」にシフトして、自分の髪の毛がいかに強情で扱いにくいものかを実感。まして今は矯正毛と地毛のハイブリッド状態。扱いにくいなんてレベルではありません。
今年の2月にくせ毛をいかす「カーリー・ガール・メソッド」なるものに遭遇。さまざまなツールを買い込み、さまざまな手法を試してみましたがすぐ撃沈。
一番の原因は、
□ ヘアケア用品の香り
でした。元々私は感覚過敏のところがあり、匂いにはそうとう敏感です。複数のインフルエンサーさんが「これはどうだ」と言わんばかりに続々とヘアケアアイテムを紹介しています。「なるほど」とひとつひとつ成分を吟味し、よさげなものはたいてい購入しましたがどれもこれも匂いが強くて私的には無理でした。
スタイリング剤をつけたまま寝るとか、まるで拷問のよう。そのうちスタイリング剤が落ちきっていないのか、髪の毛のベタベタが気になり始め、調べてみたらどうやら被膜毛と呼ばれる状態になっているのでは、という情報に遭遇。
その時に「素髪」という概念を知り、できるだけ髪の毛に被膜が蓄積しないケア方法を実践し始めました。
なんとなくいいかも。ただこのメソッドだと毎日二度洗いのシャンプーを続けなければなりません。
私は元々がシャンプーは朝シャン一度洗いのみ、だったのでこれにも違和感。
そんなこんなでさらに手軽なお湯シャンにトライ。
シャンプーを使わずにお湯だけで髪を洗います。トリートメントは基本使いません。
最初の三日ぐらいは感動するくらい髪がフワフワになりこれはいけるぞ、と思ったのですが、湯シャン情報を調べていたら、「そのうち臭くなる」とか「ベタベタする」という内容が多く、またも撃沈か、という状況に。
よくよく調べていくと「クエン酸リンス」か「リンゴ酢リンス」を活用するといいという実践例が複数見つかったのでさっさく「リンゴ酢リンス」を採用。
途中で一日シャンプーを入れました。その時はかなり希釈したトリートメントを使い、お湯で洗った時にはリンゴ酢リンスを使い、時には髪の一部だけシャンプー剤を使い、そんなこんなできょうでお湯シャン一週間目ですが、髪の状態は悪くありません。
□ 心配していた「臭いにおい」と「ベタベタ」はまったくなし
□ お湯シャンにつきものらしいブラッシングはほとんどせず
□ 髪の手触りはさらさらではないしつやも今一つかもしれないけれど、どのみち「脱縮毛矯正」の最中なのではじめからダウンスタイルは無理、結ぶことが「必須」なので日常生活には困らない
という状況です。何よりも、
□ シャンプー時の抜け毛のストレスがなくなった
□ ドライヤーの使用時間が激減した
□ 髪の毛と髪の毛の間に空気が入りフンワリしている
□ カラートリートメントの褪色が進みにくくなった
これだけでも「髪断食」のメリットは大きいな、というのが個人的感想です。ただし、
□ スタイリングは何をしても決まらない
私の場合、
□ 元々割と髪の毛は丈夫な方
□ 頭皮トラブルなどなし、ヘアケア用品でアレルギーが出たこともなし
□ 白髪はそれほど多くないのでカラートリートメントによるリタッチ染めでなんとかなる
□ 髪がペタッとするとか薄毛とかつむじのところがパクッとわれるといったトラブルなし
□ 髪の色を変えたいという強い欲求がわかない
□ 逆にくせは頑固、どちらかというと剛毛、とにかくまとまりにくい、広がる、ボウボウ
といった特性があるので、もし改善できるとすれば「くせ毛」そのもの。ただこれはもう縮毛矯正はしないと決めたので、というかすでに一生分の縮毛矯正を楽しんでしまった気がするのでこれからは地毛を大切にしながら、可能な範囲で化学物質を使いすぎないようにして、それでも時々活用し、くせ毛カットの得意な美容師さんの手を借りつつ、そこそこ、ほどほど、適当なケアをしてけばいいのだろう、という方向性がみえてきました。
□ ナチュラルでなければいけない
□ 脱洗剤をしなければいけない
□ アンチケミカルでなければいけない
□ エコでなければいけない
□ 環境にやさしくなければいけない
□ 何かの王道をいかなければいけない
という気負いはゼロ。
一週間続けたけれどさすがに毎日暑いからシャンプーとお湯シャンを交互にしようかな、でもものすごくコンディションのいい日はお湯でさえ洗わないようにしようかな、それとも一定期間通常のシャンプーケアに戻すとか、ま、どっちにしてもその日の気分次第、などなど様々な楽しみ方を思案中、模索中です。
実は「肌断食」も「髪断食」も私の場合ワンニャンがいるからできているのでは、と感じています。
犬猫ちゃんは基本私たち人間よりも化学物質に弱い。もちろん自然のものであっても匂いの強すぎるものは彼らの肉体にとってストレスになります。
天然成分だから、自然由来だから環境に優しいというイメージが定着していますが、その環境の中に人間と同居している動物君に対する配慮がないのがこの国の実情ではないでしょうか。
以前は私も香水を使っていましたし、香水を卒業してから自然由来の香りものを使っていたこともあります。いまは極力「無香」の生活を心がけています。実際匂いはなくても化学物質あり、というものも少なくありません。
「自然のものだから安全、環境に優しい」と謳われている特に「ハーブ系またはアロマ系」商品には犬猫に禁忌のものが含まれている場合が少なくありません。「オーガニック」「ボタニカル」を前面に出している製品の成分表をみるとクラクラするほど。それらを開発・販売する人は犬猫ちゃんと暮らしていないのでしょうか。それとも生活のため割り切ってイメージ戦略を貫くのでしょうか。
残念ながらすべてがパーフェクトという製品はほとんど流通していません。
もちろんそうした製品を必要とする人たちがいるのも理解しています。それらを排除したいのではなく、私の生活においては可能な範囲で頼りすぎないようにしたい、それがいまの正直な気持ちです。
今回、
□ 脱縮毛矯正
をきっかけに自分のくせ毛と徹底的に向き合うチャンスをもらえました。そのおかげで「髪断食」という新たな楽しみも生まれました。その中で、犬猫と同居させてもらっている人間として、彼らと環境をシェアしながら生きていることの意味を再確認することができました。
人間優位の自然観はこの国本来のものではありません。
そもそもシャンプーやヘアケア、スタイリング、カラーリングといった文化は欧米由来のものです。欧米由来ということはその大元は「二元論」です。もちろん私たち自身も二元論の世界で生き続けてきたという事実は否定できません。そこから得たものも数知れず。
しかし、いま、さらにそこに「ひとつの〇 まる」という意識があったことを思い出せば、ヘアケアひとつとっても新しいけれど本当は大昔に知っていただろう「何か」を思い出すことができるような気がします。
その片鱗が少しだけ見えてきたのか、まだまだ二元論どっぷりの世界に浸っているのか、そう、「髪断食」は「神=カミ断食」にもつながってくるものなのかもしれません。
ベタベタとカミにまとわりついていた人工的な概念をリセットできたら、そこに見えてくるものは何なんでしょう。メッキがはがれたときに感じられる本物の輝きはテカテカやピカピカとは比べ物にならないくらい私たちを納得させてくれるものかもしれません。
人は、自然志向に陥れば陥るほど本来の自然から遠ざかります。
環境保護・保全に陥れば陥るほどその本質から遠ざかります。
私自身何年もその道を歩み続けてきたからこそ、いまようやく少しだけこの世の仕組みがみえはじめてきたところ。
それでもすべてがわかる人間なんてこの世には存在してない。
だからこそ、私たちはまだこの肉体を授かっているのかもしれません。
頭皮&髪の毛が喜んでくれるようにこれからも大切にさせてもらおう。過保護、過干渉ではなく。
彼らの喜びは私自身の喜びであり、私たちのいのちの「母」の喜びでもあるのだから。
※ 当エッセイは、すべて「私の場合」のお話です。
私と同じようにしなければいけない、とか私の生き方「オススメですよ」とか、その手の意図はまったくありません。
私たちはみんなそれぞれが「唯一無二」。
私の場合、犬猫ちゃんの声なき声をどうしても言語化してしまうという特性があるようです。いいのか、悪いのか。