わがマンション内のドクダミが愛らしい花をつけはじめました。
数週間前、ネットに「ドクダミの駆除の仕方」というニュースがあがって来て正直驚きました。
ドクダミは繁殖力が強い、生命力が強い。古くから十薬の名で薬草として利用され、解毒や利尿などの効用がある植物。また、東南アジアでは野菜のように食用としても使われます。確か化粧水などに利用する人も少なくありません。
私自身子どもの頃、おできができたり虫にさされたりすると母にドクダミの葉っぱをはってもらって治していったことが何回かあります。最近では健康茶としてわざわざドクダミ茶を購入することもしばしば。
漢方で、草の葉や根を材料とした薬をそう‐やく【草薬】というそうです。ということはドクダミはまちがいなく「薬」の原材料であるということ。その証とでも言えるでしょうか、ドクダミは別名「アンチドーテ」と呼ばれます。
意味は「解毒剤」。
なるほど。
「この世に雑草という草はない」
これは植物分類学者の牧野富太郎博士の言葉です。
牧野氏は昭和天皇とも交流があったとのことで昭和天皇に関してはこんなエピソードが残っているんだとか。
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昭和天皇の静養中に侍従らが皇居周辺の草刈りを実施し、お帰りになった際に一部雑草を刈り残したことをお詫びしたところ、陛下が牧野の言葉を引用して「雑草という草はない。どんな植物でもみな名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる。人間の一方的な考え方で、これを雑草として決めつけてしまうのはいけない。注意するように。」とおっしゃった ( というエピソードも残っています)。
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このエピソードが本当かどうかはわかりません、内容そのものは人間の視点のみが正しいというのは決めつけだ、もっと「自然・じねん」全体の幅広いかつ奥深い視点を持ちなさいという、私たちに対するメッセージのように取れなくはありません。
実際、江戸時代に記された多くの農業書には、作物以外の植物については単に「草」と記され、「雑草」という呼び方はなかったと言います。ちなみに「草」というのはそもそもは「どんぐり」(zào)を意味したとする説がみつかりました。であればそれに「雑」がつくのは本来的に不可思議ではないでしょうか。
雑草という言葉が「にほん」に初めて登場するのは「本草図譜」という植物図鑑(1828年刊行)。なんでも効用や性質などがまだわかっていない植物を指して雑草と呼んでいたんだとか。
では現代使われているようなネガティブな意味合いをもった「雑草」という言葉が「にほん」にはじめてあらわれたのはいつなのか。
それは明治に入ってから。札幌農学校(現在の北海道大学農学部)の半澤洵博士によって「雑草学」が著される1910年にはじめて「雑草とは人類の使用する土地に発生し、人類に直接或いは間接に損害を与ふる植物を云ふ~」と記されたと言います。
どうやら「望まれないところに生える植物」という意味をもつ英語のWeedの訳語として「雑草」という言葉が使われたらしいとのこと。
現在ではどうなっているかというと、人間社会に(農耕や景観などの点で)迷惑をかける草本系植物が「雑草」と定義づけられています。人の役に立つか立たないかという欧米の植物に関する見方で「雑草」という言葉およびその概念が生み出されたということのようです。
逆に言うと、明治以前のにほんに「役に立たない草」=雑草とする見方はなかった。まさに牧野博士の名言通りだったというわけです。
興味深いことに、ある研究者がラオス奥地の村を訪れた時にも「雑草」に相当する現地の言葉がなかったと言います。
□ ↑ 「実際~」の部分 名言「雑草という名の草はない」世界は本当にあった 田中淳夫 森林ジャーナリスト 2023/4/27 Yahoo! 参照
私は前エッセイ
の中でこんなことを記しています。長めの引用になりますが、
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「ざんぎり頭をたたいてみれば文明開化の音がする」
これは明治のはじめ頃さかんに歌われた歌の一節です。ざんぎり頭というのは、西洋風に短く切った髪型(かみがた)のことです。ざんぎり頭のように、日本はさまざまな分野で西洋式を追いかけはじめました。文明開化です。それまでの伝統的な生活様式がかわり、近代化が進んでいきました。
略
また、この歌の解釈のひとつにこんなものもありました。
【 散切り頭とは、ちょん髷を切り落とした髪型のことで、この歌は散切り頭の人を、近代化の潮流に乗った先進的な人だとして賞賛したものである。 Weblio 辞書 より 】
「江戸にほん」は西洋式ではなかったけれど相当な文明社会だったことが昨今明確になりつつあります。
西洋式の後追いを「文明開化」と言い、さらにその潮流に乗った人を「先進的として賞賛した」ということは、視点、目線はどこなのか、少し冷静に考えればすぐわかること。
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「明治維新」によってこの国は西洋式の後追いを先進的とし、それを近代化の幕開けとした。
その時に「人が望ないところに生える植物」、あるいは人の役に立つか立たないかという欧米の植物に関する見方によって「雑草」という言葉およびその概念が生み出されたということが明確になりました。
「江戸にほん」は東洋的・東洋式、地球全体を「〇」で捉えていた、それは自然・じねん、という概念の世界だった。
一方「明治にほん」は西洋式、地球をふたつに分断して捉えていた、その世界のトップに君臨する「人間」とそれ以外のものを「人間」に取ってプラスになる存在かどうか、という選別をしていた。
この違いがくっきりと浮かびあがってきました。
どちらが正しい、悪い、ではなく、私たちの本質はどちらに近いのだろう、と「雑草」という言葉が私たちに考えるチャンスを与えてくれているのかもしれません。
自分にとって都合の悪い存在をあえて「雑草」として排除する、という文化はいまのこの「にほん」、世界にとってベターな選択なのか、と。
奇しくも「ビッグ・モーター」の街路樹の伐採や除草剤の散布といった行為が社会的に非難を浴びた件は記憶に新しいところ。それが「美しい日本」と呼ばれた概念の本質のヒントになっているとしたら私たちは何をみればいいのか、ほんの少しだけこころの軌道修正をしてもらえたような気がします。
私は小柄な方なので視線が地面に近いせいか、「雑草」と呼ばれる存在に対して妙な親近感すら感じるタイプです。
ちなみに私の誕生星座的にみた「守り神」のひとつにアルテミス=狩猟の女神と通じる「アルテメジア = ヨモギ」が入っているらしいことを数年前に知りました。
「ヨモギ」、一説によると東洋のハーブの女王なんだとか。ハーブというと神聖な、という捉え方をされることも少なくありません。
ドクダミとヨモギ。
なぜそんなに評価が変わるのでしょうか。
草にヒエラルキーがあるって、不思議な感覚。
そもそものいのちはすべて大いなる「ひとつ」から生まれているはずなのですから。
美しい花だけを鑑賞し愛でる、という文化はもしかしたら非常に「西洋式」なのかもしれません。
ということは。
ルッキズムの根源は西洋思想ということになりそうです。
自分にとってプラスをもたらす美しい女性、あるいは男性だけを特別に「愛でる」。
◇ 参考
https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%8D%89 草