椿、春の木と書きます。
ツバキと言うと冬の花のイメージが強いのですが、実は寒い時期に開花し春を告げることから春の花という意味を与えられているとする説があるのです。
ツバキの学名はCamellia Japonica。
Japonicaは「日本の」という意味。
まさにツバキはこの母子里原産ともいえる木。
私たちは日本の木、春の花、というと「サクラ」とのイメージをもっています。多くの民族学者が「サクラ」と「稲作」の関係を示し、同時にそれはこの国の精神の柱でもあるとサクラ信仰を唱え続けてきました。
一方、「ツバキ」はなんと、縄文遺跡から発掘されています。なんでもおよそ5000年前の縄文時代前期にあたる福井県の遺跡からツバキ材製の赤い漆塗りの櫛が発見されているんだとか。同時にヤブツバキの石斧の柄も出土しています。
また伊豆大島の下高洞遺跡の崩落した縄文中期から後期にかけての地層からツバキの葉の化石が発見され、伊豆大島には縄文時代からツバキが育っていたという証拠が現れました。
ツバキと言えば髪油としての椿油が有名ですが、それだけではありません。ツバキの幹や枝は椿炭(ちんたん)の材料として、しかもその炭の火力は強く、さらにツバキの花びらは「花びら染め」のための染料用に、葉は釉薬のための椿灰に、そして油のしぼりかすの種子は肥料にと余すところなく使われました。
逆にいうと、自然の恵みをまるごと活用させてもらっていた縄文人の生活にツバキはなくてはならない存在だったのではないでしょうか。そう、古代この国では「木」は決して観賞用ではなかった、生活の一部、自分たちのいのちそのものだった。その代表的なもののひとつが「ツバキ」。
私が当エッセイで縄文を語ることはあまりありません。ムーブメントとしての「縄文回帰」はそれはそれであるとしても本質ではないのでは、と感じているからです。
当エッセイでサクラシリーズが続いたのは、サクラこそこの国の花、サクラこそこの国の宝、のようなイメージに疑念を感じ続けていたためということがあるのかもしれません。
もちろん私もサクラは大好きですが、印象操作に使われた、特に「ソメイヨシノ」はある意味気の毒であると同時に申し訳なささえ感じます。けれど「ソメイヨシノ」が人工的に恣意的に創られるという役割を担ってくれたお蔭で、本当のサクラを感じるにいたることができました。そう、気の毒だとか申し訳なさとかそれらはすべて私のエゴであることにも気づかせてもらえました。
当エッセイで何回もお伝えしているようにこの国の本当のサクラは「山桜」です「ソメイヨシノ」ではありません。私の調べた範囲ではその「山桜」さえ縄文の遺跡からは発掘されていないんだとか。
田の神と結び付けて捉えられるコノハナサクヤ姫と共に「サクラ」はこの母子里固有のものではなく、それはかなりの確率で農耕文化とともに渡来の民が運んできた木であり、概念だということではないでしょうか。
それがいけない、という意味ではありません。
ただそれはこの母子里自生の木ではないということです。先住の民がいるこの母子里に異国の地から運んできたものをのちに「国花」として定着させた、信仰の対象にした。
誰が。なんのために。
ちなみにツバキは江戸・徳川家の守護木とされているものだそうです。
皇居東御苑はかつて江戸城本丸があった徳川家の拠点ともいうべきところ。その一角にあるツバキ園には20品種以上のツバキが植栽されています。椿園以外にも皇居東御苑内には至る所にヤブツバキがあると言います。ヤブとついているということは原生の意味がこめられているのかもしれません。また江戸初期の江戸城吹上御殿には御花畑がありツバキが数多く植えられていたそうです。
江戸の匂い、縄文の匂い。
ツバキの匂いを嗅ぐと時空を超えた、この母子里の人々の生活が感じられるようになっているのかもしれません。
私はきょう久々に椿系シャンプーを購入しました。
ツバキの入ったシャンプー、あるいはツバキとネーミングされたシャンプーはこの国にもたくさんありますが、なぜか以前使ったものは「しっくり」きませんでした。
うがった見方ですが、もしかしたらあえてツバキを過小評価させようとした層がいたのでは、と感じられなくはありません。
ツバキのポテンシャルに気づかれてはまずいと考える層があの手、この手を尽くしたのかもしれない。
だからこそ、今度はしっくりくるかもしれない、まったく新しい商品を購入してみました。それもすべて過去のツバキタチがいてくれたからこそ。この時のツバキはツバキと名前のつけられた商品群のことです。一見「ニセモノ」だったかもしれない彼らの存在によってやっと「ホンモノ」へとつながる道筋ができたのかもしれません。
その実はどちらも「ホンモノ」であり「ホンモノ」ではないということなのかもしれないけれど。
サクラ、と言えばはかないいのちだからこそ美しい、と捉えている人たちは少なくないはず。いわば「美人薄命」の象徴。
一方ツバキには「美人長寿」のエピソードがあると言います。八百比丘尼・やおびくにと言われる尼僧は白い肌を持ち、若々しい美しさを保ちながら800歳まで生きたんだとか。白玉椿の小枝をもち、全国を旅してツバキの苗を植えたという伝承があるんだそうです。
ツバキが繁茂する森は聖域とされた。
この伝承の信ぴょう性はともかく、旧・江戸城はどうなんでしょう。いえ、聖域という概念さえ縄文のものではないはず。なぜなら、この地球はすべて聖域であり、同時に聖域ではないから。同時に「薄命」も「長寿」も存在しない。なぜなら私たちのいのちは瞬時に死と再生をくりかえしているものだから。
今年のお花見、私はひとり、ツバキも楽しんでいます。ただ見るだけですけれど、何かを感じてくれているかも。
何かを感じさせてくれているのかも。
私は花が大好きです。
花に意識を寄せると何かが伝わって来ます。
見た目だけでいのちの営みのすべてはわかりません。これまでそういう生き方をしてきた自分自身への自戒もあっての当エッセイなのかもしれません。
いまは亡き華実・はなみ、キャバリアの導きでしょうか。
それとも私の「守護草」、そんな言葉があるかどうかはわかりませんが誕生星座的にみた私の守護神エネルギーからの流れによる「アルテミシア= ヨモギ」のエネルギーの導きでしょうか。
ヨモギ、なんでも東洋のハーブの女王だそうです。
ツバキは東洋のバラなんだとか。
さきほど『ツバキとサクラ』という書籍に初遭遇し即購入。このシンクロニシティはなんなのか。
椿シャンプーともども手元にやってきてくれるのが楽しみです。
◇ 参考
神話と伝説にみる花のシンボル事典 杉原梨江子著