サクラの呪縛からの解放、サクラの、解放 1 からの続きです。
※ 基本、サクラ表記を採用
※ 敬称略
「ソメイヨシノ」に限定したことではなく日本のサクラにはこんなエピソードがあります。
□ サクラは日本のみの原産と長く信じられた。江戸前期の儒学者、貝原益軒が「中国にサクラはない」と主張し、他の学者もこれに賛同したため通説となった
□ 本草学者の小野蘭山が益軒の説をひとつひとつ検証した結果、実際には中国の他、アジア各地、オランダをはじめとする西洋にもサクラの自生地は存在することがわかりそれを発表した
□ 上記経緯がありながらも日本ではその後も日本固有種が定説とされ、幕末以降は国粋主義へと利用されていった
□ 明治維新後、大日本帝国は「ソメイヨシノ」を国花とし、帝国陸軍の歴章とした
□ 同時に「小学校」ではその「徽章」として使用するようになり、学生服の金ボタンにも使用するようになった
□ 国定教科書の第3期4期の教科書では「サクラ」の花を教科書の「顔」として取り入れた
つまり為政者はサクラ = 日本という設定をし、中でも「ソメイヨシノ」こそがこの国の伝統的なでサクラであると国民に信じ込ませようとしていたことがうかびあがります。
ソメイヨシノの出現と同時に、文明開化の名のもと、昔からあったサクラは封建時代のシンボルとして伐採されてしまいました。この時に、日本の名花の大半は絶滅したとする説もあるようです。
昭和に入り1937年、大照晃道 (天台宗住職) の『桜と日本民族』には「山桜のパッと咲いて潔く散れると云う処、民族的精神と相通っているのである。……桜に備えている徳……は、同時に国民の精神のその内容を為しているものであった。その精は植物となっては山桜となり、人となっては大和民族となったものであろう」との記述があります。
サクラに備わっている徳は、「大和民族」の徳そのものという解釈。「大和民族」とは天照大御神の子孫である天皇を現人神 (あらひとがみ) と崇め祭事を行なう国家神道のみを信仰する民族という意味です。そこには統一思想に基づく国教的性格としての神社神道の姿が内在されています。
このように時の為政者はサクラまたは山ザクラとしてその実「ソメイヨシノ」を通して、自身に都合の良い思想認識を生み出し、それを「日本=大和民族」が持つべき思想認識と位置づけることで国民の意識を統一的にリードしようとしたことになります。それによって後の大戦では多くの国民が「天皇陛下のために」「お国のために」いのちを落とし、あるいは期せずして結果的に戦争加害者になっていきました。
そもそも「日本」の花の象徴は、平安時代までは「梅」だったとする説が一般的です。それがサクラに変わったことの根拠は平安時代の貴族が花見としてそれまでの梅ではなくサクラを愛でたとの記録によるものだとか。
この構図、何かに似ています。
もともと中国由来の「梅」を大切にしていた精神性の民に「サクラ」こそが花だと意識づけ、その権威をもとに自分たちの野望を追い求めた為政者がいた。
その後、一旦は「いやいや日本の花はサクラではなく牡丹だ」と花の種類は梅から変わったもののこちらも中国由来の文化を継承しつつ、わが国本来の平穏な時代を取り戻そうとした為政者がいた。
しかし再び「何を言ってるんだ、サクラこそが日本固有の花であり、花王だ。国民は押しなべてサクラのように潔く散るものなのだ」という意識グループがこの国の主権の座に就いた。
開国を決めて、以降の明治政府・大日本帝国は「富国強兵」が国是となり、1945年の敗戦までの77年間、戦争に明け暮れる軍事国家となりました。
そのシンボルが「サクラ、特にソメイヨシノ」。
その意識の伝統はつい最近まで面々と受け継がれていた……。
※ サクラの呪縛からの解放、サクラの、解放 3 へ続きます。
※ 参考資料は『サクラの呪縛からの解放、サクラの、解放 1 』に記述