生殖器崇拝は「女性器崇拝」が先、の傾向か

先日、当エッセイで蛇について「男性原理」「女性原理」の両方をあらわしている、ところがある説では「男根の象徴」というだけではなく「男根崇拝の象徴」と強調しているという点について私説を記しました。

 

そもそも「生殖器崇拝」は「男性器崇拝」と「女性器崇拝」のペアで捉えられるものではないか、あえて「男性器崇拝」だけを突出させて捉えるのには意味があるのではないか、おそらくそれはその説を唱える人自体の「男性性・女性性」のバランスが「男性性」優位に傾いているがゆえのことなのではないか、との内容です。

 

【再】「蛇」=「地母神」性と「男根崇拝」の関係をのぞく

 

「生殖器崇拝」について再度調べてみるとわかりやすい情報がヒットしました。全文紹介ではなく、端的に捉えていると思える点を接続詞など調整を加えて少しリライトをしてみました。

 

□「生殖器崇拝」とは生殖器(性器)に対する崇拝。生殖器のもつ神秘的な力、とくに生殖器により象徴される生産力、豊穣(ほうじょう)力に対する信仰

□男性器崇拝と女性器崇拝があるが、両者が対(つい)になって崇(あが)められることが多い

□性器をかたどった像をつくったり描いたりして崇拝する

□歴史的には古く旧石器時代にさかのぼることができ、たとえばオーリニャック期の女性裸像は乳房、腹部、臀部(でんぶ)が強調され、陰部には裂け目がはっきり表されているが、他の手足、顔など生殖と関係ない部分は省略されている

□日本の縄文時代の土偶にも同様の傾向を示すものがある。これらの時代には男性器を表すものは非常に少ないが、古代文明以降になると男根崇拝が際だっている

□とくに男根崇拝が発達した地域の一つはインドであり、シバ神の聖なる男根を表すリンガム像が数多くつくられ、信仰の対象となっている。日本でもしばしば石や木でつくった男根が道祖神として祀(まつ)られている

 

生殖器崇拝には大きく三つのポイントがあるとされています。ここでは第三のポイントに特化して紹介します。

 

□悪霊や悪気を祓(はら)う呪力(じゅりょく)をもつものとして性器を崇拝する。女陰が邪視(邪眼)を防ぐという信仰がしばしばみられる

□古代ローマのプリニウスの『博物誌』には、女性を裸にして陰部を露出させると害虫が落ちると記されている

□日本でも、道祖神がしばしば男根形をしていると書いたが、道祖神は村に入ってくる悪霊、悪病を追い払う神である

□女性の陰毛が魔除(まよ)け、御守りになるという俗信もよく聞かれる

 

コトバンクより[著・板橋作美]

 

上記に関して、以下私なりに整理します。

 

□旧石器時代は海外でも、また日本の縄文期なども「女性の土偶」に「生殖器崇拝」の考えがあらわれている

□この時代は「男性器」をあらわすものは非常に少ない

□男根崇拝が際立っているのは古代文明以降

□とくにインドではシヴァ神崇拝と同時に「男根崇拝」の傾向が強くなっている

□悪霊や悪気払いとして女性器、女陰が信仰される

□女陰が邪視(邪眼)を防ぐという信仰がしばしばみられる

□女陰の露出によって外虫が落ちると記載された文書がある

□女性の陰毛には魔除け、お守りになるという俗信がある

□日本では道祖神として男根が祀られていることがある

 

時系列で追っていくといわゆる古代は「生殖器崇拝」はどちらかというと「女性器」優位、インドの例をみてわかるようにしばらく時が経ってから「男性器」優位の「男根崇拝」が顕著になりだすという傾向がうかがえます。

 

インドの男根崇拝については「シヴァ・リンガ」という捉え方をします。これは男性器の象徴であるリンガと、リンガが鎮座している台座で女性器の象徴であるヨーニから構成され、男女の神が一つとなって初めて完全であるというヒンドゥー教の考えを表す姿です。

 

そういう意味で「男女合一」、そう「ペア」での概念なのですが、信仰としては「リンガ=男根」信仰とされています。

 

このことから「生殖器崇拝」は元々はどちらかというと「女性性」優位だったものが男性権威層による「統治」「統一」「支配」「管理」の意識とともに「男性性」優位へと変わっていったということが推察できます。

 

これはそもそも古代は「女神」信奉が一般的だったものがある時点から突然「男神」信奉に変わるのとよく似ていないでしょうか。

 

水の神、あるいは地の神だった「地母神」信仰から火の神としての「太陽神」信仰がとってかわるようになったのと同じように。

 

ちなみにインドでは土着の神はすべて「女神」だったとする説があります。アーリア人の僧侶などの存在が際立つと同時に「男神」優位の「男女合一」という概念に変わっていった。

 

かなりスッキリしました。

 

蛇はもともと両性具有意識の「女神」としての「生命力」の象徴です。もちろん「男性原理」「女性原理」の両方のエネルギーをバランスよく携えています。この時の「女神」は人型のそれではなく「宇宙」の大元の意識、あるいは宇宙システムの意味です。

 

ある時点でそれを「男性原理」優位としたい層があらわれ、単なる「男根」の象徴ではなく「男根崇拝」の象徴と定義づけた人々がいたということ。

 

それは「男性性」優位の「男性」為政者、もしくは「男性」権力者、「男性」僧侶などの「男性」指導者・リーダーたちではないでしょうか。

 

あえて調べ直しませんが確か縄文時代の遺跡から石棒タイプの「男根」らしきものが発掘されていると。それは女性シャーマンであり、祭祀王であり、その土地のリーダーであった女性将軍が祭祀の時に男根の代用品として使用したものなのではないか、との説を目にしたことがあります。

 

仮にそれが事実だとしたら、そう、ここでは「男女合一」「ペア」の概念。男根だけをことさら拡大解釈はしていません。

 

ということは「男根」の象徴を「男根崇拝」の象徴と設定したのは、ある意味男性性の女性性に対するマウント意識のようなものかもしれません。

 

縄文時代は男性性と女性性は分離していなかった。

 

男性は女性器に対して「畏敬」、または「畏怖」の感情をもっていた。

 

ところが何かのきっかけでそれが「敵対意識」だったり「穢れ」などの「蔑み」に変わり、自分たちの象徴、つまり「男根」こそを崇拝しろ、「男根」こそが「優位」であり、「女陰」は「劣位」だという意識に変わってしまった。

 

もしそうだとしたら、その時代はもう卒業していい、その時代があったからこそ、元々の「男根」と「女陰」のペアでの「生殖器信奉」に戻ることができるというメッセージなのかもしれません。

 

神社や観光地などで、自然の造形物ではなく「男根」を目立たせるようにモニュメントを創ったり、「男根」を強調するような、「男根」をイメージさせるようなお祭りやイベントなどを開催している人たちは、もしかしたら「男根」というのは「女陰」とペアになった時こそ本来の力を発揮できる、その記憶を取り戻そうとしているのではないかと感じます。

 

私たちの中には「男性性・男性原理」と「女性性・女性原理」のいずれもが備わっていますから。

 

個人的に私は、

 

□女陰が邪視(邪眼)を防ぐという信仰がしばしばみられる

□女性の陰毛には魔除け、お守りになるという俗信がある

 

の二点に驚きました。男根とのペアによるパワーはさるものながら、単体でもそんな力があるなんて。

 

「邪眼」とは悪意を持って相手を睨みつけることにより、対象者に呪いを掛ける魔力のこと。

 

男性が女性を「悪魔」、「妖怪」や時に「鬼」としたり、そもそものところで「穢れ」や自分たちより「劣るもの」と設定したことの本質は女性の身体には「魔物」と思えるような力が元々備わっていたということに対する「畏れ・怖れ・恐れ」があるからなのかもしれません。

 

「男性性」も「女性性」も同価値。もちろん「男性」も「女性」も同価値。お互いにお互いの足りないところを補充し合いながら、ふたつならでは、ふたりならでは、両性ならではのいのちの輝きを堪能し、楽しみ、味わう。

 

そんな「本来」のところに戻ることのできる日が近づきつつあってもおかしくないような気がします。

 

そもそもはみんな「ひとつ」だった……。

 

そのためにはまず自分の中の「男性性」と「女性性」のバランスをとれるように意識的に、ということのようです。

 

※ 当エッセイは私の直観と直感によって自分自身の整理のために執筆しているものです。特定の他者を非難したり排除したりの意識はありません。

 

◇ 参考

 

コトバンク 生殖器崇拝

ヒンドゥー教の神・シヴァ神とリンガ信仰

Wikipedia 邪眼

 

 

 

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