花神・かしん。
中国に伝わる万物成長を司るカミのこと。「万物」がポイントではないでしょうか。宇宙のありとあらゆるもの、という意味で。
少し意味を狭めてみた場合「群花を統べ、天和を司り成長を促す百草の花神」ととるそうです。意味はよくわかりません、何かの暗喩かと。なんでも中国の人々は花神が幸運をもたらすと捉えていたんだとか。ということは決していわゆる植物としての「お花のカミサマ」というだけではなさそうな何かがうかがいしれる気がします。
この「花神」、女夷・じょい・にょい、または花姑・かこと呼ばれていたとのこと。
いずれにしても「女」性で使われていることは確かなようです。そう、シンプルに考えて男性、女性、どちらもの性をも携えている「女神」の位置づけです。
にほんでは、『花神』(かしん)という言葉は、1977年1月2日から12月25日まで放送されたNHK大河ドラマ第15作として有名です。原作は司馬遼太郎氏。脚本は『国盗り物語』でも司馬作品を手がけた大野靖子氏。
NHKの解釈でしょうか、調べてみると【「花神」は中国の古語で花さか爺さんの意味という】という表記がヒットします。
いえ、花さか爺さんではなく、「花の神、または花の精、または女夷、花姑」であり、くりかえしになりますが「女神」の位置づけではないでしょうか。
NHK大河ドラマ『花神』では、戊辰戦争で薩摩・長州連合を指揮して倒幕に多大な功績を残した大村益次郎の人生が「花神」として描かれているようです。私はこのドラマを観ていないので詳細はわからず。
少し視点をかえて再度しらべてみました、【中国の百花仙子(ひゃっかせんし)は、中国神話に登場する蓬萊山に住む仙女。 李汝珍による伝奇小説『鏡花縁』でも登場する。 百人の花の精に統括する花神。】
「花神 = 仙女」とあります。
これもNHKの解釈のようです、【昔から、人知れず野山に花を咲かせる神を「花神」と呼ぶ。】
百歩ゆずって、にほんでは昔から花咲か爺さんのことを花神と呼んでいた、と解釈したとして『 枯れ木に花を咲かせましょう 』、つまり「江戸 (時代) は枯れ木だったと ?」。それは「どこから」の視点なのでしょうか。
司馬遼太郎氏の原作も読んでいないので、私の脳内妄想レベルでのお話ですが、いかにも、な作為的な匂いを感じました。
これらは「明治維新」を「絶対善」と印象付けたい人々が作家やメディアを使って史実を微妙に歪ませて、「これが本当のことだ」と私たち民に意識づけるための仕組みの現象化のひとつと受け取れなくはありません。
明治維新とは異教徒たちの「にほん」への反乱(あるいは「クーデター」)と取る説があります。
その説によれば明治維新以降の「にほん」は幻想と虚構の世界でそれ以前の「にほん」が本物であったと。
どこに自分を立たせるかで視方が180度変わってくるということ。
これについてはどちらが「良い」「悪い」ではなく、どちらが「正しい」「間違い」でもなく、どちらも「良くて悪くもあり」どちらも「正しくて間違いでもあり」なんでしょう。
私自身は、歴史モノは決してその内容を鵜のみにしない、吟味に吟味を重ねる、という考え方をしています。
個人的にではありますがさまざまに学んできた結果、私たちに知らされていた歴史・史実のほとんどは何かしらのミス・リードが加わっていた可能性が高いと捉えられることがわかってきたためです。
ただし、視点の異なるすべてを非難したり、排除したり、キャンセルしたり、というつもりはありません。それらがあったからこそ、いま、ようやく少しだけ真ん中に近づきつつある段階にいたることができたから。
わがマンションの河津桜、ものによってはほぼ満開、ものによってはようやく開花が始まった段階と、花のいのちはそれぞれです。
わたしたちのいのちもそれぞれ。考え方もそれぞれ。お役目もそれぞれ。人生の課題もそれぞれ。
お互いがともにお相手と自分を尊重しあいながら、人生の花を色づかせ、互いに愛で合うという、そんな時間が始まりつつあるような気がします。
そういえば、瀬戸内寂聴氏は自身の小説『花芯・かしん』について『「花芯」は「子宮」という中国語である』と言っています。
花、と言えば「女性性」の象徴と捉えるのが一般的。それを無理やり「男性性」として通そうとするのは、「女性性」への嫉妬・羨望ゆえの「男性性」の焦りによるものと捉えられなくはありません。どうしても譲れない何かがあったのでしょうか。
「いま」を迎えるためにはそういう時代が確かに必要だった。
私たちには「男性性」と「女性性」両方が携えられています、誰のいのちにも。その均衡がとれてのひとつのいのちがおよそ77億個この地球に同時に存在しているということ。さらに存在してはいないということ。それらのもつれが「いま」のこの地球を創造しているということなのかもしれません。
「花神・かしん」、中国語では「ホアシェン」と言うんだとか。解釈として【花的精神】という表記が出て来ました。中国語はまるでわかりません、けれど「ホアシェン」「花的精神」この字の並びをみただけで優しい気持ちに包まれました。
※ 当エッセイのテーマは202/02/15に浮かんできたものです。2月15日はわが愛犬 (そろそろ愛犬という言い方を卒業したいと思いますがまだ浮かんできませんのでしばらくは。愛犬、愛猫という言い方は人間の愛着を増長させるもののようだと気づきました)・キャバリア華実の命日。
男のコなのに「はなみ」。花も実もある華やかな犬生を、という想いで「華実」と名付けました。
この季節に早くも蝶々があらわれました、ゴールド、日をかえて二度も同じ姿で私のそばに。
「あ、華実君」、すぐそう感じました。
私が気がつくかどうか試しているかのような絶妙な距離感のところで軽やかに翅を動かしていました。
その華実が誘導しての当エッセイ。
肉体を脱いでも「はなみ」スピリットは「やはり」生きているということなのか。
◇ 参考
花神(女夷、花姑):お花屋さんの守護神とも言うべき花を護る中国の神様。
瀬戸内寂聴が“干された”小説「花芯」、村川絵梨&林遣都&安藤政信で映画化