「にほん」はアジアの弁天島とする説があります。
「弁天島」、イメージわきますか ?
半島や大陸の横に飛び出したり砂州でつながっている、または入り江のちょっとした小島のイメージでしょうか。もしそうだとしたら「にほん」の各地にある弁天島がなんとなくイメージできるかもしれません。
『ウィキペディア(Wikipedia)』には以下の記載があります。
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弁天島(べんてんしま、べんてんじま)は弁天(弁才天)に由来する島名で、日本には各地に存在する。インドに起源を持つ弁才天は財産の神として崇められるのみならず、水神としての性質を併せ持ち、海難事故を避けたり、大漁を祈願する漁師たちの守護神として日本各地の小島に祀られてきた。
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また『コトバンク』によると「弁天」とは、【 [1] 「べんざいてん(弁才天)」の略。[2]① ((一)から転じて) 美しい女】とあります。弁天、辯天、辨天、または弁財天、弁才天、などと表記されます。
わが街、そもそもは漁師町。昭和の高度経済成長期に埋め立てによってエリアが拡張され、人工的な街が創られました。私はそちらに住んでいます。
元町とされる旧市街地には「弁財天」が祀られ、そことは離れたエリアに「弁天」という地名があります。私はその「弁財天」があまりにもひっそりと祀られていること、さらに「弁天社」のないところに「弁天」の地名がつけられていることから、
□ おそらくこのエリア全体が昔は「弁天島」に相当するエネルギーをもっていたのではないか
□ それを「誰か」が一般の民にはわかりにくく、気づきにくくするように「封印」した歴史があるのではないか
□ 漁師さんたちは潜在意識でそのことを知っているのではないか
だから「弁天」の地名は「浮上」しているのではないか、つまりそこは多次元レベルにおける「弁天島」エネルギーの意識とつながっている「ヘソ」のようなものではないか、という個人的推察をしています。
この内容は「大和・やまと」、大変お世話になりました ~ 地名に隠されたヒントを探るに記しています。
ではそもそも「弁天」とは ?ということを深追いしてみます。こちらも『ウィキペディア(Wikipedia)』を参考にしました。
□ 仏教の守護神である天部の一尊である弁才天(弁財天、弁済天)の別名
□「紛争の火種」という意味がある
□「傭兵・テロリスト・密偵・スパイ・暗殺者・人間爆弾」を意味する
さらに気づかれないように、なのか下の方にこんな項目がみつかりました。
隠語というのは仲間内で使う暗号のようなもの。この内容からして女性グループではなく、ある男性グループによって、ということがうかがえます。
そう、「弁天」という言葉には、
□ 仏教の天部の一尊である弁才天。そこから美しい女性、の意味
□ 「紛争の火種」になるような「傭兵、テロリスト、スパイ」のこと。それらは往々にして「女陰」を携えた(穢れし) 女性、女性性、女神性をさしているのでは
ということがみえてきたのです。
もしこの解釈が正しいとすれば「男性性、男神性」の巧妙な考えが浮かび上がってきます。
それらはこの地球において大切なもの、コト、自分たちにとって「不快で穢れた」と感じられる自分たちとは対極のエネルギーをもった存在を貶め、卑しめ、そのエネルギーを一度封印します。そのうえでそのエネルギーを自分たちの都合のいいように支配します。同時に封印前の元々のエネルギーが自分たちに対して「暴走」しないようにいつも目を光らせています。さらにその恩恵にあずかる手はずも整えます。
「弁天」は元々はインド由来の「サラスヴァティー」のエネルギーを携えています。『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、サンスクリットでサラスヴァティーとは「水(湖)を持つもの」の意であり、水と豊穣の女神であるともされています。初めは聖なる川、サラスヴァティー川(その実体については諸説ある)の化身でした。
「水」をもつもの、とは「水」を抱くものの意味 ? 「水」を抱く。この地球は水の惑星ですから、この「地球」を抱く、の意味でしょうか。
ということは「サラスヴァティー」というアイコン、記号は明らかに生命の源と同エネルギーであり、宇宙の原理と同じシステムを携えているということになります。つまり人格神ではなく、概念としての「宇宙根源システムエネルギー」。
それを「仏教の守護神である天部の一尊」と位置付けた。しかもそれらは自分たちにとっては都合の悪いテロリストの側面をもっていると設定したのかもしれない。そのことは民には知らせず、実際より矮小化した「弁天」としての力を拝ませるように誘導した。決してそれらのパワーが自分たちに歯向かわないように。
とあくまでも仮説。
これは西洋で言えば「魔女狩り」の「魔女」の概念に似ているような気がします。この列島で言えば朝廷側にそむいた「まつろわぬ」民を「土蜘蛛」「蝦夷」「隼人」など、あるいは「祟り神」「鬼」などとして徹底的に痛めつけ、あるいは蔑んでその力を封じこめた。そして彼らの信じる「地のカミ意識」をなきものにし、民にはわからないところに隠し、渡来の別の神を拝まさせ、自分たちだけはその地のカミの恩恵にあずかろうとした、その手法とも似ていないでしょうか。
これを主体的にやったのは誰なのか。そのエネルギーはなんなのか。
漠然とですが、私の中でストーリーができてしまいました。
私は昔から「サラスヴァティー」が大好きで、おそらくその「言葉のカミ、芸術のカミ、その叡智の力」などにひかれていたのでしょうが、なぜか「弁天」「弁財天」は「サラスヴァティー」ほどには親和性を感じませんでした。今でも「弁天」という地名にある公園に行くと「あ、サラスヴァティーを感じる」ということが多々あって、それは近くの川の遊歩道を歩いていても同じ。
私の潜在意識は、もしかしたら「弁天」に隠された何かをキャッチしていたのかもしれません。
当エッセイの内容はおそらく誰も書いていないはず。私自身、先ほど気がついたのですから。これらを感じたのは私の「女性性」エネルギーのような気がします。
もしも完全なる妄想だとしても当内容を執筆した本人としては、「弁天」の奥に隠れた「サラスヴァティー」意識と息を合わせ、意識を合わせ、「ひとつ」の感覚を得てからそれらの土地やお社、祠などの「弁天」にフォーカスするようにしたいと感じています。
ちなみに「サラスヴァティー」意識は女性性、男性性どちらもあり、の「両性具有」です。
「サラスヴァティー」と言えば「女神」とされていますが、そのエネルギーは男女ともにあって、それらが互いにもつれあっていての「サラスヴァティー」意識というアイコン、記号になります。そうだとすれば「弁天」もはごろもをまとった天女にとどまらず、「両性具有」の意識とエネルギーをもったアイコン、記号だと拡張してとらえればより本来の「力」に近いイメージとなるかもしれません。
そう考えると「女神」という言葉ももしかしたらその力そのものが「矮小化」されて定着化していると捉えられるような気がします。
なお、当エッセイは私が個人的に感じたこと。
特定の「他者」を非難したり排除したりすることを目的としたものではありません。私自身の「内側」の整理として記しました。
※ 元々「弁天」は「吉祥天」のエネルギーだったという説があります。
「吉祥天」もインド由来ですので、気になるようでしたらお調べいただくのも良いかもしれません。
「にほん」では時代時代の流れの中でさまざまな「習合」が進んで、そもそもの「本来」のエネルギーがわかりにくくなっている場合が少なくありません。
妄想とは言いながらそれを解き明かしていく作業は楽しいもの。
一枚一枚かぶせたものをはがしながら、やっと真ん中の「本物」の宝ものをみつけた気分。
かぶせたもの、かぶされたもの、またかぶせた「存在」、かぶされた「存在」があったからこその楽しみです。
と言ってもまだまだこの先があるのかもしれません。
これがすべて、ではないのかも。
◇ 参考
サラスヴァティー 『ウィキペディア(Wikipedia)』