わが街「埋め立て地」です。
ディズニーランドの宿場町、あるいは門前町として「ディズニー」とともに開発されました。
つい最近、どうやらこの辺りはディズニー周辺と同じように、ある「プラスチック会社」の主導によってつくられた土地らしいという情報にたどりつきました。調べてみるとこの会社には実体がなく、では一体この土地には何が埋められているのだろう、と興味がわきはじめました。
そんな中、2024/01/18、【大阪・関西万博 災害リスク上「夢洲」は最も危険、「建築物をつくるのは論外」と専門家が指摘する理由】という記事がYahoo!に発現化。『AERA 2024年1月22日号』からの記事だそうです。
そこに【 ( 災害リスクマネジメントが専門の立命館大学の ) 高橋特任教授は懸念を示す。「夢洲はごみの焼却灰や浚渫土砂などで埋め立てた人工島なので、地盤が弱く、地震の際の液状化の危険性が極めて高いと言えます」】の記述があり、もしかしてわが街、ディズニーエリアも含めて「ごみの焼却灰や浚渫土砂などで埋め立てた人工のエリア」なのか、と。
「浚渫土砂」とは聞きなれない言葉。ネット情報によると、「港湾や河川などの底にある土砂を掬いとる工事を浚渫(しゅんせつ)といいます。 浚渫によって水底から土砂や汚泥が排出されます。 土砂は廃棄物処理法では廃棄物に該当しませんが、汚泥は廃棄物に該当するため注意が必要です」となっています。
いろいろと調べてみたのですが、浦安の埋め立て地に何が使われているか明記しているものは見つかりませんでした。
上記のアエラ記事によると大阪の場合は、「おおさか市民ネットワーク」のメンバーが、【 万博会場となる夢洲2区に隣接する夢洲1区には、30年間でダイオキシンやPCB(ポリ塩化ビフェニール)など人体に有害な化学物質を含む推定860万トンの焼却灰が埋められています。その汚染された土壌に含まれる有害物質が、雨水と一緒に2区に流れ出ています】とコメントしています。
浦安はどうなんでしょう。
と、ここまでは三次元的現象面について触れてみました。
私がこのアエラ記事を読んで「なるほど」と思ったのは、その地名「夢洲・ゆめしま」のこと。近くには「舞洲・まいしま」という人工島もあり、さらに「夢舞大橋・ゆめまいおおはし」という橋もあると言います。
「夢洲・ゆめしま」と言えば、東京都江東区の町名「夢の島(ゆめのしま)」を想い起こさせます。埋め立てによる人工島です。現在は美しく整備された緑の島ですが、1950年代の高度成長期には東京都内で急増したゴミの最終処分場としてゴミが埋められ、そこにハエが大量発生したことから、一時は「ゴミの島」と呼ばれたこともあるんだとか。
わが街ディズニー・ランドは「夢の国」と呼ばれています。正しくは「おとぎの国」らしいのですが。そのエリアの地名は「舞浜・まいはま」。まさしく「夢舞・ゆめまい」エリアとも言えるかもしれません。
この手の埋め立て地の開発に関わっている財閥系企業はほぼ同じです。ネーミングのセンスが似ているのはそのためではないでしょうか。
では「夢」は何かの隠語なのか、と調べてみました。「夢」自体ではみつからなかったのですが「夢見草(ユメミグサ)」は「桜」の意味があるとのこと。このことから「はかなげで美しいものの象徴」ではないかとの考えにいたり、そういえば「儚い」とは「人に夢」と書くことに気づきました。
「砂上の楼閣」、という言葉があります。コトバンクによるとこれは、【 崩れやすい砂の上に建てた高い建物。外見は立派だが、長く維持できないもののたとえ。また、実現不可能なことのたとえ 】となっています。
だから「夢」、なのでしょうか。
「桜」は日本人のこころの花と呼ばれています。実はこの時の「桜」はソメイヨシノ限定、また「日本」とは「大和・やまと」のことをあらわしているとする説があります。この列島のそもそもの「桜」は「山桜」。決して寿命の短いはかないいのちの象徴ではありません。「大和・やまと」という呼び方も「倭」の国の民がこの列島を統一していくうえで設定した記号であり、本来この列島に「大和民族」なるものは存在しないという説があるのです。
「ソメイヨシノ」を「桜」と設定し、「ソメイヨシノのようにはかなく散れ」と国民に意識づけをしたのは明治維新官軍側だと言われています。
そう、埋め立て地の開発に関わっている財閥系企業はたいていの場合「明治維新官軍側」の系列のエネルギーです。さらに言うとそれらはかつてこの列島にたどり着いた「渡来系」の民の子孫たち。もちろん大昔の話です。彼らは、遠くの祖国に想いを馳せて「儚いいのちのソメイヨシノ」を愛でた。そして国土拡張のために「ゴミ」を中心に埋め立て、その土地に「ゴミ」のイメージを払拭するかのように「夢」という文字を使ったのかもしれません。
それでも私たちはともに生きる道を選んだ。たとえ「ゴミ」の上に創られた「砂上の楼閣」だったとしても、その周りにきちんと緑が根付く。緑が根付けばそこに微生物や他の生物たちのいのちの営みが行われる。
それらを見守り、支え、いのちの「場」を提供してくれるのは、渡来のカミではなく、この母子里の「地」のカミ。水神と呼ばれる「大蛇」だったり「龍」だったりのエネルギーをもつ「意識」でありその「システム」です。人格神ではなく概念としての「カミ」。
言い切ってしまうのはまだ早いかもしれませんが、私の中では「いま」これらが確信となりつつあります。
渡来系の民は、一見「侵略」目的でこの列島を「支配」してきた歴史があるのかもしれません。その一方でこの列島の「地」の民はそれらをじっと観察しながら、けれど「支配される」という経験を自らの意思で選んだのではないでしょうか。
その「支配、被支配」体験を経たからこそ、「いま」それらを超越したところに意識をフォーカスさせてもらえるチャンスがみえてきたような気がします。
「支配層」も「被支配層」も互いが自分の目的を果たすためのパートナー。どちらか一方だけが良い、というものではなく、どちらも「良くて」同時にどちらも「悪くて」という関係なのかもしれません。
ちなみに、仮にわが街、わが家が「砂上の楼閣」だったとしても、私はここに住んでいろいろな体験をするという人生の課題があるのでそのこと自体、それ以上でもそれ以下でもありません。
東日本大震災の時、確かに「液状化」の被害は大きかった。私個人は、あの時この土地のエネルギーが本来あるべきところへと再生されたのではないかと感じています。当時もいまも有害物質が検出されたという情報はありません ( この事実の裏には「人体に影響が出るレベル」という枕詞の存在があるのかもしれませんが )。
たとえわが家の下が「ゴミ」であっても住めば都。いまの環境は私と家族にとっての「いま」のベストです。
「ゴミによる埋め立て地」だからと「ケガレチ」を主張するような差別意識は必要なくなりました。
埋め立て地の下には古来からの海の記憶が残っているはず。海のカミ、水のカミの意識が息づいているはずですから、それらとひとつになるだけで十分なのではないでしょうか。
「ゴミ」もまた地球の一部。自分自身の「ゴミ」なところを受け容れるチャンスの時。
※ 本エッセイには記していませんがこの街の歴史を調べていたら、まさに、という内容にたどり着きました。
液状化について調べるきっかけとなったのは今回の「石川地震」の新潟における液状化のニュースです。
「弁天」の地名が私を誘導してくれました。
「地震」という人間側からみた「災害」にも私たちへの有意義なメッセージが隠されていました。
※ 2024/01/21 追記
ネット上に『「美しい地名」は実は危なかった!…高級住宅地に広がる「隠されたリスク」』という記事 (現代ビジネス ) が発現化してびっくりしています。
私自身はこの記事内で紹介されている書籍など一切読んでいません。
また記事内の「舞浜」の解釈も私とは異なるもの。ただしこの記事の中で浦安・舞浜エリアが【東京湾の浚渫で出た土砂をそのまま埋め立てたために、あくまでも「砂地」である。】とあったことは参考になりました。
この手のシンクロニシティは何を意味しているのでしょうか。