当エッセイは私の意識の中に浮かんできている多次元的視点での個人的メッセージを言語化したものです。
特定の人物や団体を否定したり非難したり揶揄することを目的としたものではありません。執筆しながら自分自身の「真ん中の」の整理をしています。ご理解のうえ、読み進んでいただけると助かります。
『イエス・キリスト』くずれる。このメッセージは2024/01/15に私の中に突然浮かんできました。
一般にイエス・キリストは「救世主」のアイコンだとされていますが、私の中では「キリスト=救世主」という意味ではあってもそれが「= イエス・キリスト」にはならないという意識になっています。
現段階で私の意識はそもそものところで「イエス・キリスト」が救世主である、とするキリスト教の教義とは異なる解釈をしているようなのです。
「イエス・キリスト」はいわぱ現人神の象徴、アイコン。ここ「日本」でもその概念にならって「天皇」を現人神とする考え方を唱えている人たちがいます。
そのアイコンとしての「イエス・キリスト」という概念、記号が「崩れた」ということは ?
現人神 = 救世主として設定された「偶像」が「崩れた」という意味ではないでしょうか。同時に「日本」における「皇室システム」という「偶像」も「崩れた」のかもしれません。これは「天皇家」が「崩れる」という意味ではなく、あくまでも「天皇家」に外側から課せられたひとつの課題、明治維新以降の「皇室システム」の「崩れ」という解釈です。
続いて、『お題目を唱える』とは ?
コトバンクによると題目とは【 日蓮宗で唱える「南無妙法蓮華経」の7字 】となっています。日蓮宗や法華経などではこのお題目を唱えることによって釈尊(釈迦)の持つ功徳を譲り受けることができるとされており 、これによって「教えに帰依する」という意味を伴うんだとか。
imidasによると、転じて『(議論・方策などで)実際には内容のない主張やスローガンを口先だけで言う。「お題目を並べる」ともいう』という記載がありました。
また、『(多く「お題目」の形で)口先だけで、実質のともなわないこと。「お—ばかり並べる」』、さらに「お題目とは建て前のこと」としている説もありました。
ちなみに、日本の仏教はすべてキリスト教の流れをくんでいるとする説があります。この説によれば、日本における仏教とはそもそもの教えのところに「聖書」のエネルギーがあるということになります。これらは原始仏教に近いとされる「上座部仏教」とは異なる「大乗仏教」のこと。
「原始仏教」と「大乗仏教」は似て非なるものということでしょうか。
上記に【 このお題目を唱えることによって釈尊(釈迦)の持つ功徳を譲り受けることができるとされており 、これによって「教えに帰依する」という意味を伴うんだとか 】という部分があります。この時点で「お題目を唱える」という勤行は釈迦の教えによるものではないのでは、ということが浮かんできます。
私は一般的宗教も仏教も深く探求したことはありません、まったくのド素人です。そのド素人の見解では「確かお釈迦さまは特別な儀式や修行はするな、また自分、つまり「私」を崇めるな、崇拝するな、特別視するな、と言っていたような」気がしています。あえて調べ直しませんが。
「教えに帰依する」ということは釈迦の教えを自分の「外」において、その「教え」を偶像視するということにならないのでしょうか。
なるほど、私たちの世界の救世主とされた「イエス・キリスト」という偶像とともに日本仏教における「お題目」という偶像も崩れたのだな、というのがあくまでも私自身の意識の中でのお話。
この時の「お題目」は「本音」に対する「建て前」の暗喩だと感じました。
私たちは、もちろん私自身、いままで何かの現人神にすがり、何かの教えに帰依し、「建て前」を唱え続けてきた。その経験があったからこそ、「いま」、「現人神」という偶像も、その「現人神」の御言葉とされる「教え、教義」という偶像も、何より自分自身の「本音」の外に創り出した「建て前」という偶像から離れ、本来の自分自身の「本音」という、なにものにもかえがたい「本質」の「意識」の存在を思い出せたのかもしれません。
「イエス・キリスト」の降誕祭として「キリストのミサ = クリスマス」を日本ではじめて行ったのはキリスト教イエズス会であるということを私は去年のクリスマスの時にはじめて知りました。行われた場所は安倍元首相のおひざ元とされる「山口県」。「山口県」と言えば、明治維新の官軍側に属した多数の人たちの出身地として有名な場所。
ということは明治維新はクリスチャン、さらに限定するのならカトリック・イエズス会による革命では ? 見方によっては「侵略行為」では ? その真ん中に「皇室制度の確立」といういわば思想的柱があったのでは ?
ということは、やはり「日本」の「皇室制度」にもリセット・ボタンが押されたのかもしれません。
この「日本」と名付けられた母子里の土着のカミ、先住のカミのめざめ、本格的に。
私は「土着」という言葉にネガティブなイメージをもっていません。
「この土地にもととも根付いていた」とか「この土地と一体化した」とかの意味をもち、「土着のカミ」とは「この土地のカミ、そのもの」ということで「地母神」のイメージそのものだからです。この時の「地母神」は人格神ではなく、ひとつの概念あるいはシステムの意味です。
「地母神」が私たちに「お題目を唱えなさい」と導いていたのでしょうか。
「地母神」と私たちはそもそもが「おおいなる〇、おおいなるひとつ」のはずなのでは ?
「お題目」を唱えたとたん「地母神」と切り離された自分になるのでは ?
私はいままでもできるだけ「本音」を言語化しようとしてきましたが、おそらく「建て前」に引っ張られていたこと数知れず。
「言うこととやることが違う」
私自身だけでなくもしかしたら多くの人にあてはまることのような気がします。
これらは「言行不一致」「自己矛盾」などの言葉におきかえられるかもしれません。特に「自己矛盾」は自分自身を苦しめます。
さて、これからは「本音」の時代。「建て前」という偶像はもういらなくなったのです。
ということはそろそろ「日本・にほん」という名称に隠されたこの列島「母子里」の「本音の名称」の存在が浮かび上がってくるかもしれません。
当エッセイを執筆していて気づいたこと。
この国でいう仏教とはもしかしたら世界共通の仏教、釈迦の教えの意味の「仏教」ではなく、この国独自の「仏の道」のことなのでは、と。
それを「仏教」と設定して、本来の釈迦の教えと混同させるようなミス・リードがあったのかもしれません。あるいは無意識のうちのミス・リード。そのミス・リードがあったからこそ、いま、さまざまな偶像を手放せたのでしょうか。
もしそうだとすれば「ミス・リード」という行為も本来のカミ・システムの「愛」のひとつ。同時に「ミス・リード」される、という設定をつくったのは他でもない私自身の意識だった、ということにも気づくことができました。
散々「お題目」を並べて生きてきたのです。これからは、ちゃんと「本音」を述べることができるようになるのではないでしょうか。
もしもどうしても「建て前」を優先したい時は、「これは建て前だ。いま私は自己矛盾を重ねている状況。でもそれはいまの私のベスト」と認識しつつあれば少しは「自己矛盾」が緩和されることがあるかもしれない……。ここは「未定」。
自分自身で実際に試しながら反応を確認しつつ均衡バランスを整えていくしかなさそうです。
※ 今年から「です」「ます」調で執筆しています。
また「かもしれない」や「〇〇でしょうか」など「断定」しない形での文章が増えています。
これは顕在意識的に捉えると「自信がないから」ということになるのかもしれません。一方潜在意識的に捉えると「すべてのことは流動的なので本来、断言、断定するものではない」ということなのかもしれません。
また、私たちの意識は「無限大」ですから、いまの段階で「断定」してしまうと、そこで自分の可能性を限定してしまう、ということも考えられます。
しばらくはこのスタイルで執筆していきます。