「良くもなく悪くもなく、可もなく不可もなく、可でもあり不可でもあり、良くなくも悪くなくもなく、それ以上でもそれ以下でもない」
これは2024/01/05の朝浮かんできた言葉です。
前エッセイ 宗教による侵略の時代、終焉 で私は最後にこう記していました。
【誰かの人生に干渉したり、誰かから干渉されたり、はもう卒業してもいいのかもしれません。
同時に自分自身の魂に干渉することから卒業するのが「いま」なのかもしれません。
なるほど、「宗教」とは自分で自分の魂に干渉するということを「記号化」したものだったのでしょうか。】
冒頭の言葉はこれに対するアンサーのようです。
私は自分に対して過干渉だった、おせっかいだった。自分自身の魂に「あぁでもない、こうでもない」とつねに口出しをしてきた。
同じように他者に対しても「あぁでもない、こうでもない」とジャッジして、時に「指導者」として導きたがってきたのではないか、となぜかそんな風に想えたのです。もちろん「潜在意識」の部分。自分ではそうと認識していないところで、の話。
いゃあ、「過干渉のおせっかいオバサン」として人生を生きてきたなんて。「オバサン」としましたが、心理学でいうところの「リトル・ナース」のことだといま浮かんできました。
「リトル・ナース」とはケア(Care)をテイク(Take)する、という名のついたケアテイカー型アダルトチルドレンのこと。一般的には「お世話型」タイプと呼ばれます。
このタイプの人は「気遣い」がすべて、と言ってもいいくらい、周りの人のことを文字通り「気遣い」続けます。
「あの人、大丈夫かしら。何か手助けが必要なのではないかしら。私にできることならなんでもしなくちゃ」
ついつい「困っているタイプ」「不安をたくさん抱えているタイプ」に目を向けてしまう。
これは一般的には小さい時の家庭環境が原因と言われ、
□「誰かのお世話をしないと家が回らなかった」
そういう機能不全 ( これも心理学用語なので実は機能が「完全」「パーフェクト」の家しかない、というのがマクロ的な見解ではないかというのがいまの私の個人的な考えです ) の家庭の中で、いつも小さなナース( リトルナース )が大活躍しなければならなかったため、大人になってもその生き方以外わからず、社会に出ても献身的に他者に尽くしてしまう、といういわば一見家庭病のようなその実、その人の人生において必要な「性格的特質、特徴」のこと。
私の場合、どちらかというと大人の話の裏が透けてみえてしまう方だったので、どこかで「自分は親より上、先生より上」と感じていたところもあったのかもしれません。無意識の範疇。
そんな中、時に「ナース」のように、時に「指導者」のようにふるまえないかと気遣いを膨らませ続けていた。
このタイプは往々にして一見「優しい人」「思いやりのある人」と見られがち。ところが潜在的には「気遣いできなければ存在価値が無い」と思い込んでいるところが大問題で、つまり「ありのままの自分、等身大の自分を受け容れられない」ので深みにはまればはまるほど負のスパイラルの中でしか生きられないという事態が顕著になります。私に限らず女性にはこのタイプが少なくありません。
私は自分のこの傾向に気づき、数年前から「人のことを気にしすぎない」というところに意識的に取り組むようにしてきました。
そのお蔭で最近は少しずつ「リトル・ナース」ちゃんの存在を感じることはなくなりつつありました。
「リトル・ナース」ちゃんが成長したその本質は自己満足のための「過干渉のおせっかいオバサン」だったのだとやっといま気づきました。
【なるほど、「宗教」とは自分で自分の魂に干渉するということを「記号化」したものだったのでしょうか。】
くりかえしになりますが、魂への干渉、自他に向けての、は長い間のステルス布教によるもの、この場合は「洗脳されていた」と言ってもいいかもしれません。
□ 〇〇できなければ存在価値がない
そもそもこれ自体が「洗脳」です。なぜなら私たちはどんないのちにもありのままで存在価値があり、その存在価値に「上」も「下」も「優」も「劣」も「大」も「小」もない、というのが「本来」のこの世界の概念だから ( 現時点における個人的認識として ) 。それでは困る人々が「あなたには足りないところはばっかりだよ、〇〇しないとあなたは存在価値さえ得られないよ」と、社会全体の仕組み、システムを使ってそう「洗脳」し続けてきたのです。
が。いまとなってはそれもすべて私自身の魂の選択だったということも理解できるようになりました。
ということは、「過干渉」も「おせっかい」もいらなくなりました。
もちろん、お世話係のケアテイカーという役割もナースの役割も本当に必要とされた場合、同時に本当に必要と魂が判断した時以外は、自分の「肩書」あるいは「仮面」としてラベル化する必要もなくなりました。
もう「不十分」「不足」「不満」「不安」を抱える人たちを外側に探し求めることもしなくていいし、もちろん自分の中に「不十分」「不足」「不満」「不安」の種をまき続けること自体卒業のタイミングがやってきたようです。
「宗教による侵略行為の終焉」、前エッセイの冒頭で私はこの言葉を明記していました。
今回はあえて心理学的概念をふまえつつ話を進めましたが、私は個人的に心理学もひとつの宗教だと感じています。
私自身のいま現在の解釈によれば「宗教」にはまればはまるほど自分で自分の魂に干渉する度合いが深まるのかもしれない。同時に「心理学」にはまればはまるほど自分で自分の魂に干渉する度合いが深まるような気がしています。
もちろん、「宗教」や「心理学」のすべてを否定しているわけではなく、知識のひとつとしてそれらに触れながら、縛りがきつくなると感じるようなら時に休んだり緩めたりをくりかえしながら、そこだけに没入しない方がいいのかもしれない、私自身の魂においては。
「良くもなく悪くもなく、可もなく不可もなく、可でもあり不可でもあり、良くなくも悪くなくもなく、それ以上でもそれ以下でもない」
すべてにおいてこの考えが即、私の意識に反映されればこの世界は本当に生きやすい世界へと変わっていくことでしょう。
この世界を創造しているのは、私たち一人ひとりの意識。
ようやくこの意味が机上の空論ではないものとしてみえはじめてくれています。
それというのもこの世界に「宗教」や「心理学」があったお蔭です。
※ 私は数年前、ユングの分析心理学の理論が勝手に自分の内側から浮かんでいた時期があります。それまでユングについて勉強したことは一度もありませんでした。
それによって読者さまサポートとしての「カウンセリング」も、また自分自身への「カウンセリング」もスムーズに進み、そのこと自体大変ありがたく受け止めています。もしかしたらそれらの行為が私の自我を肥大化させるための何かのエンティティのいたずらにひっぱられていたものだったとしても。
2023年に入って「カウンセリング」を続ける意味を自分自身に問いかけ、すべてのセッションを終了するという決断をしました。
その時に「心理学」についても一旦卒業しました。
その後、それらの決断によって困ったことは何一つ起きていません。
先日、趣味で買い集めた「ユング」本をすべて手放したばかりです。
私にとっては「宗教」よりも「心理学」の方がバイブル的要素が強かったように感じています。
◇ 参考
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「 心理学 リトルナース 」 で検索し、今回初めてたどり着いたサイトです。「リトルナース」「ケアテイカー」の情報のみ活用させていただきました。