宗教による侵略の時代、終焉

いま、突然浮かんできました、「宗教による侵略行為の終焉」という言葉が。

 

日本は私も含めて自分は無宗教だと信じている人が多い国。

 

それなのに「クリスマス」を祝って、除夜の鐘を聴いて、年が明ければ神社に初詣。

 

私自身、この「コースメニュー」になんの違和感もなく何年も過ごしてきました。

 

前エッセイ いままでの「太陽神」ではない新たな「太陽神」にごあいさつ を執筆する中で私はクリスマスという概念自体がキリスト教・イエズス会の伝道活動の手段だったらしい、ということにはじめて気づきました。一般的には「布教」という言葉を使うらしいのですが、「布教は仏教の場合」としているものも多かったためここでは便宜上「伝道」の言葉を使います。

 

そのスタートの地が日本においては「山口県」、あの「清和会、安倍派」リーダーであった安倍元首相のおひざ元とされる場所。

 

なるほど、日本の場合、宗教の布教・伝道はどちらかというと西日本、あるいは日本海側から行われていたのではないか、ということがうかがえます。

 

調べた範囲では、イエズス会は最初「薩摩」で伝道活動を始めた、「薩摩」はそれを受け容れなかった、という情報がありました。ことの真偽はわかりません。

 

さて、安倍元首相と言えば亡くなってから「旧統一教会」との親密な関係が明らかになり、日本において「旧統一教会」による伝道活動は政治的便宜がはかられながら行われていたのではないか、ということが私たち国民の知るところとなりました。

 

それはおそらく統一教会だけではないはずです。そうだとすれば、ひとつの可能性として、

 

◇ 新興宗教、カルトなどによって私たち国民の魂レベルへの干渉が行われていたのでは

 

ということが浮かび、同時に、

 

◇ 仏教、キリスト教、あるいは神道などの教えも国民の魂レベルの干渉の道具のひとつだった可能性があるのでは

 

ということも想像できます。

 

私が調べた限り、私たちが「お釈迦さまの教え」と信じてきた「仏教」は、日本においてはすべてがキリスト教  ( ネストリウス派キリスト教 )  の要素を含んだもの。なじみ深いかのお大師さま「空海」も  一般的に「景教」と呼ばれる異端のキリスト教 ( ネストリウス派キリスト教 ) 系密教徒です。

 

また、神道も日本古来の宗教ではありませんでした。

 

古神道という言葉を耳にしますが、よくよく調べてみるとこれは江戸末期から明治初期にかけて人為的に生み出された新興宗教とのことだということがわかりました。なんでも江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者である平田篤胤の「平田神道」からの流れで当時の国学者たちが「復古神道」を提唱し、その名称から「復」を取り去り、「古神道」としたんだとか。

 

「古神道」と聴くと古式ゆかしきみたいな厳かな気持ちになりますが、あくまでも個人的推察ですがもしかしたら明治維新に備えて国学者たちがあえてこの概念をこのタイミングでまとめあげた可能性もゼロではないのかもしれません。

 

なんのため ?

 

後に日本の最高神、皇祖神を「アマテラス」と設定することを優位に進めるための伏線として ? 「皇道」「国体」「治教」思想のため ?

 

これらは個人の妄想の範疇なのでこの辺でやめておきましょう。

 

いずれにしても「お坊様」と呼ばれる人々は少なからずキリスト教の教義を踏まえて修行をしたり、「神主様」と呼ばれる彼らのその「神」はキリスト教の「神」に限りなく近い存在であってそれらを何も知らない国民に「仏教」あるいは「神道」として「布教」なり「伝道」なりし続けているという事実。

 

しかも私たちは「この国には八百万の神がいて」とずっと信じ込んできた。

 

これは「なんでもオッケー」の概念を植え付けるための方便だったのかともしれないという気がしてきました。

 

つまり、「どんな宗教も最終的にたどり着くところはひとつ」という、一見理にかなったような「グローバル思想」が知らないうちに私たちの魂にインプットされていたのではないでしょうか。

 

それこそが「宗教による侵略行為」の実態なのではないか、と。

 

日本の場合、これらに加え「スピリチュアル」というカルト・ジャンルが成立します。

 

私もかつて「スピリチュアル」大好き人間で、どっぷりはまった経験を踏まえ、「他の人はわからないけれど、少なくとも私はスピリチュアルでは幸せになれない」という考えにいたり一旦卒業、7~8年が経ちました。その後、4年前ぐらいから本当に信頼できるだろうと思える情報に絞って時々内的情報を勉強し、いまは「幸せになる、という発想自体が認知の歪みなのかも。なぜなら私たちははじめからすでに幸せな状態にあるものだから」という考えに変わりました。

 

スピリチュアル信奉の人たちは「私はいかなる宗教とも無縁です」を強調します。私自身もそうでした。まさか自分がステルス布教の対象者、あるいは実践者であるとは思っていない場合が多いのではないでしょうか

 

ところが一説によると日本のスピリチュアルのたどり着くところはひとつ。それは明確にある「カルト」団体、と言い切ることができる、という考え方があり、現時点で私はその説に少なからず共感できるという段階です

 

その「カルト」団体はキリスト教の教えがベース。教義における言葉はさまざまに「日本語風」にアレンジされています。

 

また、「陰謀論」を唱える人たちも「キリスト教」がベースです。彼らは常に「善悪二元論」で物事を判断します。一番ベーシックなところでは「光と闇」「天使と悪魔」の概念でしょうか。私も一時はまりましたが、こちらはすぐに卒業しました。

 

そう、日本の「宗教」「スピリチュアル」がたどりつくのは、「キリスト教が設定した神、もしくは限りなくそれに近い存在、あるいは概念、エネルギー」であって、本来のこの国の信仰の対象ではない「外来」の「それ」を「本物」だと信じ続けてきたのが私も含め私たち国民の姿だということ。またそれは、私たち自身の選択でもあったということ。

 

「いま」このことを想い出し、自分の本質はなんなのかを改めて認識するために、「創造主 ( 人格神ではなく性別もなく )」とされる概念、意識、エネルギーがあえてそのチャンスを与え続けて来てくれた。

 

つまり「宗教による侵略行為」という一見「非」と思えるような現象をこの地球に提供し続けてきたのは他でもない「創造主」であり、「私たち自身」だったということです。

 

これに気づいた、ということはもうそれは必要なくなったということ。

 

2024年、初春。

 

日本でさまざまな現象が起きているのはこのためではないでしょうか。

 

真の、本来の「カミ意識」と呼ばれるエネルギーのめざめ、胎動が私たちの肉眼の目を通すと「自然災害」だったり、「事故」だったり、「事件」だったり、という現象として見える。

 

けれどその実は、私たち一人ひとりの内に潜む「宇宙」のめざめの息吹きなのかもしれません。

 

2024年が「辛く苦しい一年」になるのか、「一見辛く苦しく思えることも起こるけれどその本質はすべて愛、のエネルギー、愛のシステム」と気づき、自分自身もその一部であることをこころの底から感じることができる年になるのか、さて、私たちはどちらを選択するのでしょうか。

 

誰かの人生に干渉したり、誰かから干渉されたり、はもう卒業してもいいのかもしれません。

 

同時に自分自身の魂に干渉することから卒業するのが「いま」なのかもしれません。

 

なるほど、「宗教」とは自分で自分の魂に干渉するということを「記号化」したものだったのでしょうか。

 

 

※ 当エッセイは私が今まで学んできたことと私の直感、直観がもつれあってこの形になりました。

 

宗教に関しては門外漢といった方がいいくらいの理解しかありませんが、自分の中から浮かんできた言葉や概念は大切にしたいので、いま私が執筆できる範囲のことを記しました。

 

なお、私は漠然とですが「神」という表現そのものが「宗教」概念の一部なのでは、と感じているため、当エッセイでは「神意識」について「神」ではなく「カミ」と表現しています。

 

現在進行形での考え方です。この先また異なる「意識」が浮かんでくるかもしれません。ご理解のうえ、ご覧いただければと思います。

 

当エッセイをアップした後、文章を部分的に直そうと思ったら、行間が崩れ、句読点もバラバラになるというアクシデントが。

 

誰かが怒っているのか、それとも「Good job」のサインなのか、それともどちらも、なんでしょうか。

 

 

 

 

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