きのうはクリスマス・イブ。
きょうはクリスマス。
「クリスマス」に関する象徴的なできごとがふたつ起きた。
ひとつは、【百貨店 高島屋のケーキがグチャグチャに崩れて届いた】問題。もうひとつは、【「クリスマス粉砕!」渋谷でデモ行進】。
共にあえて詳細には触れないが、ケーキグチャグチャという文字から「クリスマスと言えばケーキ、そのケーキがグチャグチャになった ⇒ クリスマスの概念そのものの崩壊」を感じた。その後の「クリスマス粉砕」の文字によって、私の感じたものはおそらく多次元的なメッセージだと認識できた。
そもそもクリスマスの由来、起源は ? というと。ある説によれば、
□ 12月25日はローマ皇帝がキリスト教の前に信仰していたミトラ教の、不滅の太陽神ミトラの誕生祭、つまり冬至祭だった
□ 350年頃に12月25日をキリスト降誕日に設定。太陽神のための誕生祭であり同時に冬至祭りでもあり、という設定の上に「太陽神のトップであるところのイエス・キリストの降誕」という新たな設定を上書きした
ものとされている。
その理由として考えられることとして、
□ ミトラ教という異教徒たちの祭をクリスマスに選んだのは、ミトラの誕生祭を取り込むことでミトラ教を結果的に追放しようとしたため
□ 同時に民衆をキリスト教に教化していこうという狙いがあったため
という説があるらしい。つまり民衆のキリスト教へのと教化という目的が先にあって、そのための手段として「クリスマス」を設定したというもの。この説によると「イエス・キリスト」概念をより強固に浸透させたいキリスト教にとってそれまでの太陽神としてのミトラが目障りだった、ということのようだ。
日本では「クリスマス」を祝うことはひとつの文化として定着しているようにもみえるが、では日本で初めてクリスマスのミサが行われたのはいつなのだろう。
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クリスマスは、文字通りイエス・キリストのミサの意であり、キリストの誕生を祝う降誕祭です。日本のクリスマスの歴史は、1552(天文21)年に山口県で宣教師たちが日本人信徒を招いて、キリストの降誕祭のミサを行ったことが最初と言われています。
日本のクリスマスの歴史はいつから?なぜ日本で広まって定着したの? より
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他サイトをみると明確に「イエズス会 フランシスコ・ザビエル」の文字。中にはフランシスコ・ザビエルとともに来日した宣教師コスメ・デ・トーレスによって、としている説もある。
なんでも江戸時代に入ると「キリスト教禁止令」などもあったため、このイベントは定着しなかったんだとか。上記サイトを参考にする限り、その後明治、大正、昭和と何度も「クリスマス」を浸透、定着させようとする動きが「国家」レベルで行われていたことがうかがえる。
いずれにしても「クリスマス」はキリスト教イエズス会の布教 ( キリスト教の場合は「伝道」「宣教」としている情報もあり ) 活動の一環として「山口県」でスタートしたという事実。
「山口」と言えば、いま話題の「清和会、安倍派」のリーダーだった安倍元首相のおひざ元。現に清和会メンバーの多くは「クリスチャン」だという情報を過去、何回か目にしたことがある。ただしそれは「(表向き)」とも。
そもそも安倍元首相の支援団体には、日本会議だったり、日本の神道関連だったりとさまざまな「宗教、カルト」系団体が含まれていたことは周知の事実。
2023/12/25日、TBSテレビで以下の内容が報道されたようだ。
【松野前官房長官「事務総長として会計には関わっていない」と周囲に… 松野氏ら安倍派幹部4人を事情聴取 東京地検特捜部 自民・安倍派「裏金」事件】
ここに『自民・安倍派「裏金」事件』の文字。
いま、メディアはふたつのチームにわかれている。
ひとつは「自民消滅」と「自民党」に目を向けようとするチーム、もう一つは「自民・安倍派」とターゲットをさらに絞っているチーム。
私は自民信奉でも左でも右でもない。
ただここにきての「キックバック事件」報道はこの国の根幹レベルにおける、ある意味「クーデター」のあらわれではないかと感じている。
ミトラ教の「ミトラ」という太陽神、キリスト教の「イエス・キリスト」という太陽神。
日本でそれに相当するのはなんの神だろう。
高島屋のケーキは「白と赤」。それがグチャグチャ。
そもそも日本の「太陽神」と設定された存在の概念もグチャグチャになって、という言い方は綺麗ではないが、つまり「リセット」されて真の太陽神の創造はすでに始まっているのではないだろうか。
それはおそらく私たちの知っているどんな太陽神でもなく、その実は「太陽神」でさえない存在なのかもしれない。
そう、この地球における「太陽」という概念そのものが変わる、そんな時代の息吹を勝手に感じた。
そのための「ミトラ教」であり、「キリスト教」であり、「イエス・キリスト」であり、「クリスマス」であり。これらがすべて存在したからこその「いま」なのではないか。
今までクリスマスについて真剣に考えたこともなければ、なぜか「クリスマス・イベント」にこころがわきたたない自分がいて、私は相当変わりものなのかと悩んだこともあるけれど、確かに私は変わっているし、クリスマスについても現時点での私自身におけるベストの考えにたどり着けたのでは、というささやかながらでっかいプレゼントを受け取ることができてこころがぬくぬくしている。
寒いけど寒くない。
私たちは誰しもがいつも、ただ愛の中に在る。
最後に。
私はいかなる団体、チームにも属していません。
当エッセイは私の個人的な見解です。私と考えの異なる人たちを揶揄したり、攻撃したり、排除したりする意図のものではありません。可能な限り「俯瞰」で観察しての内容をこころがけました。
※ 私は数年間マーケティンク゛・プランナーとして「施設開発」とそれに関わる「プロモーション」に携わったことがあります。
当エッセイをみると、「布教活動」の一環として、宗教的行為をイベント化し、それを行事として定着させ消費を煽るという方法論があったということがわかります。
私の場合、「シーズナル・イベント」とか「オケージョナル・イベント」という名目で一年間の販促プログラムを計画・運営していました。
きょうはじめて、私も知らないうちになんらかの宗教の「布教・伝道活動」に関わっていたことがわかり、ビックリしていると同時に、これだけの巧妙な仕掛けを展開しなければいけないほど、「何かを隠さなくてはいけなかった人たちが存在した」のか、がわかってさらにビックリしています。
それらすべてがあっての「当エッセイ」です。
「隠す人」も「隠された人、モノ」も、一見、その隠し事にまんまと引っかかった、その実は自分自身で選択していた私のような人もみんなこの世における価値は同じという現実。
◇ 参考