熱が出た。きょうで9日目。
もっとも熱発自体は最初の2日間のみ。その後、体調が元に戻らず、特に下半身に力が入らない。
私の場合、平熱が低いので熱が出ても高熱にはなりにくい。が、くすぶる。今回はそれとは異なり、二日でそれなりの熱になった、その後回復に時間がかかっている。
久々の体調不良。病院には行かず。
以前はいつ体調を崩したのだろうと考えたら、数か月のタイムラグがあるけれど約3年前。
愛犬・キャバリア・華実が突然「大往生」にて天国に戻った時。私は顔中がエレファントマンのようにふくれあがり、どうやら顔中に「ウミ」がたまっていたらしい。
一か月近くその状態が続いた。病院には行かなかった。病院に行ったとしても抗生物質を処方されるくらいだろう。それなら自力で何とか切り抜けようと。
当時、波動系商品を扱っていたサプリメント屋さんのアドバイスを受けながら、できるだけ「何も考えず寝ていろ」という養生法を続けた。
「何も考えず寝ている」というのが実にむずかしい。
しかも顔のはれはなかなか引かず、最後の最後のはれがどうしても抜けきらないという状態が何日も続いた。
「神の水を飲まないとあなたは死ぬ」
唐突に、出てきたこの言葉。どうやらそのサプリメント屋さんの「キメ」言葉のようだった。私はこの時決心した。顔のはれがひくまではサプリメントを活用するけれど治ったら、このお店とは一切お付き合いをしない、と。
そして実践した。
この時、「外側の専門家には頼らない」という生活スタイルがいよいよ確立した。もちろんどうしても必要な時には力を借りるけれど、「神」を口にする専門家とは距離をおいた方が賢明というのがいままでの私の人生で学んできたことだ。
特に「〇〇をしないとあなたは死ぬ」は最大の禁句といってもいいだろう。そんな言葉を信じてはいけない。逆にいうと、そういう言葉を言って「本当のこと」を気づかせてくれようとしたありがたい人たちなのだけれど。
その後、愛犬・宇宙・そらに生まれ変わった華実がわがやに戻ってきた。生まれ変わり云々は私が勝手にそう思っているだけ。
華実の毛皮を脱いで、アップデートをして宇宙・そらの毛皮を身につけての帰還。
華実がアップデートをしたということは当然私自身にもアップデートのチャンスがやってきたということだろう。あれだけ苦しんだ顔のはれはその後のアップデートを迎えるための準備だったということだ。
ということは ?
いま、私は来るべきアップデートに備えて、身体を整えているんじゃないかと。そんなことが自然に浮かんできた。
『自民党の「派閥瓦解」がついに始まった』、きょうの日刊ゲンダイの記事タイトルにはじめて「派閥瓦解」の文字。
ネット情報によると「瓦解」とは屋根の瓦(かわら)の一部が落ちればその余勢で残りも崩れ落ちるように、物事の一部の崩れから全体の組織がこわれてしまうこと、の意味だそうだ。
これがどれだけのことか。
実は「自民党安倍派」への、政治資金パーティーの収入を政治資金収支報告書に記載していなかった裏金疑惑を巡って、東京地検特捜部の捜査が本格化している、とのこの件、これは「本当」に大きな出来事だ。この国の根幹が揺らぐほど。
今まで岸田首相をスケープゴートにしてきたメディアも内心焦っているはず。
そう、メディア共々となりかねない国家の一大事に私たちは直面している。
もしここで「派閥瓦解」が現実のこととなり、さまざまな組織がドミノのように暴かれ出したら、おそらくそれは「神」や「仏」を口にしている人たちの大半にも影響が及びはじめるだろう。
ということは ?
「本物」の「神」「仏」の姿が暴かれる。この国の「八百万の神」と言われ続けてきたものの「実態」「本当の姿」が暴かれる。
その時にどれだけの人がその現実を受け容れられるのか。もちろん私自身もふくめて。
その衝撃はビッグモーターや旧ジャニーズレベルのものではとどまらないはず。
それらに備えての「いま」の体調不良なら納得が行く。
一見「体調不良」だけれど均衡バランスをととのえるための「調整行為」。
熱が出た = 悪いこと、などではない。
むしろ熱が出て血管が緩んだくらいの方が私たちの身体には「ちょうど良い」という考え方がある。
ウイルスを撃退しろ、という健康観は自分自身を撃退しろという呪いを自分にかけるようなもの。
私たちはウイルスと共存しながらこのいのちを永らえてきた。ウイルスは一見敵を装っているけれど、実は大切なパートナーだ。
外側にみえる存在は自分自身だったりする。
自分自身への攻撃は宇宙そのものへの攻撃だったりもする。
むやみやたらに症状を「ありがたい」とだけ持ち上げる必要はないけれど、「ありがたくもあり、またその逆でもあり」というすべて「〇」に近づくようなそんな意識を持てると良いのではないだろうか。
数日ぶりの執筆だ。
たくさん書きたかったことがあるし、まだ意識が100%ではないので執筆そのものが辛くないわけでもないけれど、きょうは「書こう」と意欲がわいた。
ということはこの後、私の体調不良はおそらくより「平常」モードに近づくということだろう。
華実のことを思い出さなければ、当エッセイにはたどりつけなかった。
華実は宇宙・そらにうまれかわってもなお、「華実」のまま、私の人生を見守ってくれている。
これがお互いの「共依存」によるものなのか、「共依存」とは似て非なる「相互依存」によるものなのか。
じっくり味わって「いずれでもあり、いずれでもなく」と意識が落ち着くと良いのだけれど。