愛犬・宇宙・そら。
鮭の骨を食べてしまった。一瞬のスキに。
大丈夫だろう、という想いともしかして ? のふたつの想いが交錯する。
その日の夜中、「キュ~、キュ~」と鳴く宇宙。
ヤバイ、きた !
大量の下痢便と吐き戻し。
真夜中のことだったので吐き戻した中に骨が含まれていたかどうか、確認せず。
その翌々日。
夜から明け方にかけて4回の下痢便。そのたびに「キュ~、キュ~」と切なさの混じった「お腹が痛いよ~」の声が聞こえてきて、こちらもこころ苦しくなる。
もちろん一番辛いのは宇宙だ。
ヤバイ。
今回は便の中に血が混じっている。
粘膜便の類ではなく鮮血。
ヤバイ、ヤバイ。
鮭の骨が内臓に突き刺さっているのか ?
ネットで情報を探る。
犬は人間よりも骨をとかす能力が強い。ただしとかせない犬もいる。血が出ている場合はすぐ病院へ。
たいていのサイト情報はそんな様子。
宇宙を信じるしかない。
私たち夫婦は、不安の中でまどろむ。
どうやらその後も一回排便した様子。
「まっ、いっか。朝になったら片付けよう」
宇宙の苦しみをわからないわけではないけれど、その時点で「病院に行く」という選択肢は二人になかった。翌日のことも考えて私は寝ることを優先した。
その後の「キュ~、キュ~」はなかった。
朝起きて「おそるおそる」排便を片付ける。
ん ? 今までより血が少ない ?
わずかな希望がみえてきた。
その後、私はどうしても出かけなければならず、夫も会社へと向かう。
数時間、宇宙の身体はがまんできるだろうか。
はたして用事を済ませ家に戻ってくるとポワンとした顔で私を迎えてくれる宇宙。
「もしかして大丈夫だった ?」
リビングと宇宙の居住スペースにウンコの姿は、ない。
「宇宙、治ったの ?」
宇宙は元々がスーパー・ハイテンションのコなので、たいていの場合はすこぶる元気にしか視えない。
グッタリすることがないのだ。
その後、宇宙を連れて排泄を兼ねて小散歩。
宇宙、元気に跳ね回る。
ウンコはできってしまったようでさすがに排便行為はなし。オシッコを数回。
身軽になったからか、元気にぶっ飛びながらわが家へ。
ごはんはどうしよう。
あれだけの排便をしたのだからお腹はすいているはず。
愛猫・海・うみがお魚系パウチを残しているのでそれにちょっと手を加え、宇宙に。
その後、便意をもよおさず。
夕方、ロングコースでのお散歩へ。
何事もなかったようにぶっ飛びまくりの宇宙。
排便行為はなし。
夜、普通にごはんを食べ、数時間後念のため、と外に排泄散歩。
風がピュ~ピュ~吹く中、宇宙は元気に飛び回る。
数分後、排便。
やった~、どでかいウンコひとつ。しかもしっかり固まっている。
そう、宇宙は治ってしまった、正しくは自分の力でちゃんと治してくれた。
「宇宙、やったね、すごいね。ありがとう」
これで病院行きの必要もなくなった。
宇宙は自分自身の自然治癒力のお蔭で、4回の下痢便、しかも鮮血の混じった、そんな状態から完全復活してくれたのである。
これがわんこの底力、実力だ。どんな生物にも本当はこの力がある。それを引き出せるか出せないかの違いだけ。
ありがたいことにわが家に来たコは「基本」健康体に育つ。
そうなってもらえるように私なりに気をつけていることがある。
□ おおらかなコになってくれるように極力こちらもおおらかに接する
□ 自立したコになるようにできるだけほぉっておく
□ どうしても過保護、過干渉になりがちなので時には「こころを鬼にする」ことも大切
□ 動物としての「犬」「猫」の生活、感情、本能をできる限り尊重する
□ とにかく「信じる」、「大丈夫」と
先代犬・キャバリア・華実・はなみは15歳2カ月で天寿を全うした。
幼い頃、先天性の僧帽弁閉鎖不全症とアレルギー、血小板減少症と診断されたが、いずれも発症、発現化せず。晩年、身体を調整するためにたまに「てんかん様発作」を起こすことがあったが、華実は自力で立ち向かった。正しくは上手に付き合った。病院通院や投薬治療など、なし。
それ以外は病気らしい病気になることなく、最後の最後の日までごく普通の生活を楽しんでくれた。
シニアわんこ特有の「老化現象」などもほとんどなく介護の必要性もなかった。
最後の最後、何時間も微笑みながら私たちとの生活をこころから愛おしむかのように時を過ごした華実。
その笑みは「花笑み」。華実・はなみの名前にふさわしい最期だった。
宇宙・そらはその魂を部分的にもらった華実の生まれ変わり。
私が勝手にそう信じているだけだけど。
華実の肉体を脱いだこの「魂」はさらにスペシャルな肉体を身にまといわが家にかえって来てくれた。
愛猫・海と愛犬・宇宙は病気で病院にお世話になったことがない。
海、まもなく11歳、宇宙、2歳8カ月。
海と宇宙のコンビは最強だと感じている、かつてのわが家の犬猫ちゃんのどの組み合わせよりも。
海も宇宙も期待を裏切らない。
私自身も彼らの期待を裏切らないように、柔らかく温かいハートでいたい。
時にカチンコチンになってしまうのも愛嬌だと。
彼らはそれでも私を受け容れてくれる。受け容れ続けてくれる。
なぜなら、そういうご縁だから。
彼らのお蔭で得たものはたくさんありすぎる。
※ 私は過去7~8年、複数のホリスティックケアの専門家とベッタリの生活を送りました。私自身は特定組織の資格をもたない「専門家」( 独学という意味です ) でしたが書籍を上梓したり、読者サービスの一環でカウンセリングやヒーリングなどのセッションを実施したりしました。
それはそれで楽しい時間でした。
ある日、「これ、違うな」と感じるところが浮かんで来て、結果すべての専門家の方とのお付き合いを卒業させてもらいました。その後、自分自身のセッションもすべて終了しました。
その経験を経て気づいたことは、
□ 専門家や有資格者という存在を神格化したり崇拝対象にしない方が自分も含め家族全員が健やかに生きられる
という事実です。わが家は誰かが体調を崩しても即病院に行く、という生活をしていません。駆け込み寺のようにどこかの「専門家」に頼ることもありません。幸いなことにそれで困ったことはありません。
私自身は元々身体が強い方ではなかったので、ある時までは何かあるとすぐ病院に行っていました。それが代替療法に変わることはあっても「外側の力に頼る」という生き方は変わりませんでした。
いまは「医療、獣医療はビジネス。それ以上でも以下でもない。適切に消費する」というスタンスに変わりました。食べ物に関して、ほんの少し気を使うことがありますが「〇〇でなければダメ」という考え方はしません。
医療崇拝、健康信奉、どちらも過去の私の生き方です。
いまは「私は健康でもあり、病気でもあり。同時に健康ではないけれど病気でもない」という考えにたどり着き、
ひとつだけ言えることは「なるようになる」「いまの状態がちょうど良い」とそのくらいのこころもちで生きているということかもしれません。それも「健康教」のような「医療崇拝」を体験したからこそです。
生と死にヒエラルキーはない。
専門家およびサービス提供者と消費者の間にもヒエラルキーはありません。
できるだけ「真ん中」に近い、「まぁるい」かつ「平」な感覚でヒトとして同時に動物としての生き方を楽しむ。いまはまだ十分でなかったとしても。
こうした考え方にたどりつけたのは、わが家の歴代ペット君たちのお蔭でもあります。
私たち夫婦自身と彼らの力を過大評価も過小評価もしない生き方をこころの歓びとして。彼らの魂とともに。