シンガー・ソングライターのKANさん(本名・木村和=きむら・かん)が亡くなった。
亡くなる、というのは魂的にみると波動が上がる、または次元が上昇する、ということ。こちらの三次元の世界とは異なる領域に魂が移動することをあらわすと言われている。
私たちは「死」を恐れ、忌避する傾向にあるが、実は「生」と「死」は同価値だ。新たないのちの誕生とこちらの世界を「通りこしていく」いのちに優劣や善悪はない。
私たちが肉体を脱ぐ瞬間、それはこちらの世界からは「ある日突然」だったり、「まったく予期せぬ出来事」だったりと目に映るが、大きな「ひとつ」の中ではそれは必然として起きたこと、最初から計画していた通りのちょうど良い出来事に他ならない。
私たちはこちらの世界での「役割」を終えた時に肉体を脱ぐように創られているそうだ。そのトリガーが「病気」だったり「事故」だったり「事件」に巻き込まれたり、あるいは「大往生」だったりの違いはあるけれど、そのトリガーもすべて同価値。
それを幸せな最期と不幸な最期、とわけているのは、この世界特有の概念によるもの。
それが「二元論」。
私はKANさんの熱狂的なファンではなく、またアンチでもなく、それでも名曲『愛は勝つ』には深い思い入れがある。あのドストライクな歌詞にはまり、かつて結婚式の披露宴でこの曲を流してもらったほどだ。
「どんなに辛くても最後は絶対愛が勝つんだから、私 (私たち ?)も負けないでがんばろうね」
結婚に対する不安と期待とともに、当時私はそんな想いを抱いていたのだろうか。
そうした想い出をよそに、KANさんの訃報に触れた瞬間、突然こんな想いがわいてきた。
「愛って勝ったり負けたりするものじゃないのでは ? 」
そう、当時は私も「愛は勝つ」ものだと信じていた。けれど「いま」、「愛はただ在るもの、この世のシステムそのものが愛。その愛が何者かに勝ったり負けたりすることはないはず。愛は不変、かつ不偏の概念」と強い想いにかられた。
ふと気になって調べてみる。
KANさんはクリスチャンだった。ご自身は「洗礼は受けていないけれどその教義にならって生きている」という意味で「イメージ・クリスチャン」という言葉を使っていた。
なるほど、謎が解けた。
「愛は勝つ」という概念、定義はまさにキリスト教の教えそのものだとみていいのだろう。
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『どんなに困難でくじけそうでも信じることさ必ず最後に愛は勝つ』
KANさんの1990年の大ヒット曲「愛は勝つ」の一節です。
略
必ず最後に愛は勝ち、善が悪を滅ぼすことを人は望み、そのような状況になるよう行動するのです。
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「今日のみ言葉」というキリスト教系のあるサイトにこう記してあった。
さらにそこには、以下の言葉があった。
『そのプロセスを一つ一つ踏みしめ、味わいながら、最後に神は勝つ、というシーンを見るのです。』
ここに明確に記されている、「神は勝つ」と。
神は無敵 (そもそも敵という概念そのものがないという意味の無敵) ではないのか。
また、別サイトにこんな情報も見つかった。
『心配ないからね君の想いが誰かに届く明日がきっとある♪』
このフレーズに対して【『強く願えば、思いは通じる』と言う言場があります】、と。
これは「念ずれば通ず」の意味、キリスト教の「祈り」という概念と同じなのではないか。
さらに、
『夜空に流星を見つけるたびに願いを託し 僕らはやってきた♪』
この、流星に願いを掛けるというのもキリスト教の考えらしい。
上記モロモロをつなぎ合わせると、この曲は確かにキリスト教の教えがベースになった曲だということがわかる。
キリスト教とは「善悪二元論」の世界。
上記の中では【 必ず最後に愛は勝ち、善が悪を滅ぼすことを人は望む 】の部分がまさにそれをあらわしている。
この世には善と悪があり、善すなわち愛あるものが悪を滅ぼすことが人々の望みなんだ、と。
KANさんの『愛は勝つ』はクリスチャンとしての生き方として「悪を滅ぼし善が勝つ」その姿を描いたものだったようだ。
かつての私はこの曲、この歌詞に魅了された。
ということは私自身が「キリスト教」を受け容れた、ということ。
時が経ち、いまの私は「愛に勝ちも負けもない。なぜならこの世界は愛というシステムそのもので、私たちは常にただ愛の中に在る、愛とともに在る存在だから」ということを思い出しつつある。
KANさんがクリスチャンとしてこの曲を世に送り出してくれたからこそ、私は愛の本質に近づけた。
この曲はかつての私の「ベスト」に近い概念で創られている。
そしていまは、新たなベストが浮かび上がりつつある。
最後になって愛なるモノが絶対的に勝つことはないし、また負けることもない。
さらに「愛」は善でもなく、悪でもない、同時に善でもあり、悪でもある。
KANさんのこの世でのお役目は、私たちに「二元論的愛」を教えてくれるものだった。そのお蔭で私たちは「二元論を超越したところでの愛」にほんの少しだけ近づくことができたのではないだろうか。
お役目、本当におつかれさまでした。
ありがとうございます。
KANさんの魂のお蔭で私はちょこっとだけ前進することができました。
私の意識が創造する世界も。
私の結婚は『愛は勝つ』の理論とともにあった。善悪二元論の世界の中で勝ち負けにこだわって生きてきた。
いま、その「縛り」がとけた。
夫と私の関係に「勝ち負け」はなくなる。
トコトン「闘いあってきた」二人だからこそ、いま、ようやくニュートラルな関係に戻る第一歩が踏み出された。これからは共に勝者であり、敗者であり、同時に勝者でもなく敗者でもないという世界を創造していくのだろう。
新たな世界の誕生。
古き世界の崩壊とともに。
『愛が勝つ』という名曲はとてつもなく壮大なテーマをはらんだ曲だった。
ひとつの時代が終わり、ひとつの時代が始まる。
人が亡くなるということは本当に淋しくて哀しいものだけれど、同時に普段は感じられない大きなひかりの輪のようなものを身体の真ん中で感じられる機会でもあるらしい。
※ 当エッセイ執筆時、胸と頭がパツパツで苦しくて文章がスムーズに進みませんでした。
先ほど「創価学会の池田大作氏」の訃報を目にして、「こういうことだったのか」と。
この国の根幹が変わりますね。なんと大きな流れでしょう。
ちなみに当エッセイは、KANさんへのオマージュの意味で執筆したものです。
それ以上でもそれ以下でもありません。
『愛は勝つ』、しっかり聴きに行きます。
私は「御冥福~」の挨拶はあえて言いません。
何よりもただ「ありがとう」。
◇ 参考