地に落ちた私の偶像 ~ ミュージシャンという名の宗教家

私は音楽が大好きだ。

 

ジャンル立てるとすると、

 

□ ラテン系

□ 日本のニューミュージックとJ-popの中間に位置するようなサウンド

  時期的なものとテイスト的なものと両方の意味を兼ねて。

  いま思うと、「流行り音楽」とか「大衆音楽」を人受けのする表現にしたもの ?

  ニューとつくとそれまでの音楽より斬新な気がするし、ポップとつくとこころがより軽やかになるような気がするから。

 

上記2グループ。もちろんんこれ以外にもかなりの音楽を聴いてきた、楽しませてもらってきた。

 

そうした中で「私自身の」三本の指に入るだろうアーティスト、仮にこの人物をAとしよう。

 

Aのサウンドにはじめて触れた時、本当に魂が跳ね返ったようなものすごい衝撃を受けた。

 

私の青春はAのサウンドと共にあり、それはつい最近まで続いていた。

 

ある日突然 「 Aの○○という曲を聴け 」、という内的指示がやってきた。その後、私にかけられた魔法が一瞬にしてとけてしまったのを感じた。

 

Aの奏でる音楽はいわゆる「パクリ」モノだった。

 

たいていのアーティストがオマージュの意味でさまざまなパクリ曲を世に送り出しているという事実は私も受け容れている。

 

Aのそのナンバーは「オマージュ」レベルではない、完全「パクリ」ともいうべき音楽だった。

 

元曲とされるあるナンバーを聴いて、音をたてて何かが崩れていくのを感じた。

 

「ウソっ」

 

今まで私が才能だと思っていたもの。それは「パクリ」や「いいとこどり」の才能ではあっても、音楽に対する「リスペクト」、アーティストに対する「リスペクト」から出ているものではなく、自分本位にコラージュを楽しむという「自分勝手」な才能だということがその瞬間に浮かび上がってきた。

 

Aには信者が多い。それも熱狂的な。ミュージシャン仲間もいれば私のような一般人も含めて。

 

彼ら「信者」の多くは、そのコラージュの才能、パッチ・ワークの才能を絶賛し、私の捉え方を「無粋な、センスのカケラもないヤツの感じ方だ」と受け止めるだろう。

 

「リスペクト」を音楽業界では「尊敬」の意味で使うことが多いが、厳密にいうのなら「リスペクト」は「尊重」の意味。ただ相手のあるがままを受け容れることを意味する。それを「尊敬」と取ると、そこには「崇拝」の感情が生まれ、それは自ずと相手に対する「偶像崇拝」となる。

 

私自身がそうだった。自分ではそう思ったことは一度もなかった。けれど私はAのサウンドの「信者」であり、Aというミュージシャンをひとつの偶像として崇拝していた。その事実が明確になった、Aのパクリ全開の「名曲」の存在によって。

 

不思議なものだ。一旦魔法がとけると今まで見えなかった、正しくは見ようとしなかった、か、いろいろなものが目に映るようになる。

 

Aのラジオ番組での対談、ただのジョークなのかもしれない、その中には「CIA」の単語が複数回出てきていた。

 

またAはとある新興宗教、カルトのメンバーだったという情報にも遭遇した。

 

私は宗教には興味がないし、けれどその一方で「宗教」や「スピリチュアル」にトコトン疑問を抱いた時期もあったりで、おそらく多くの人よりその手の情報に触れた機会は少なくないはず。

 

その私がまったく知らなかった「無名 ? のカルト」のメンバーだったらしいことに心底驚いた。ちなみに私は差別主義者ではない。カルト=悪とは捉えていない。

 

ただ教義をみる限り、相当ヤバイ。素人目にもそのヤバサが肌を伝わってくる。

 

Aはミュージシャンとしてアーティストとして、日本の音楽界のトップに位置する存在だ。

 

その音楽活動は、その実「布教」活動だった。名もなきカルトの教義の。

 

音楽的コラージュやパッチワークの手法はそのカルトの思想の暗喩。

 

善か悪か、ではない。是か非か、でもない。

 

Aは音楽を通じての「伝道師」だった。もっともAの音楽は「一見」宗教とは無縁にあるように感じられる。その思想そのものが教義の真髄だったとは。この巧みさこそがAに授けられた圧倒的才能なのかもしれない。

 

私はそのカルトの教義にはこころが響かないどころか、厭世的、退廃的なエネルギーに吐き気がするほど気持ちが悪くなった。実際熱が出た。下痢もした。

 

おそらくAの音楽を通して私は洗脳されていた。

 

その洗脳が解けた瞬間。「毒をもって毒を制す」。

 

Aの存在とそのカルトがあったからこそ、の破壊と再生。

 

 

私の中に本物の世界が蘇る、そのスイッチ役を担ってくれたAに改めて「ありがとう」。

 

あなたの才能はかつての私にとっては「ベスト」でした。

 

これからはいまの私にとっての本物の音楽、芸術に触れる機会が増えるのだろうと楽しみにしています。

 

もしもこれからあなたの音楽に触れることがあったら、あなたの「自己否定」のエネルギーを味わいながら、同時に三次元レベルを超越したところの「自己犠牲」にこころから感謝の意をもって静かに激しく堪能させてもらうつもりです。

 

あなたは音楽家としての顔だけを表面に出していますね。もしかしたら裏の顔があなたの人生の「本質」なのでしょうか。

 

いえ、どちらもがあってのあなただということを尊重します、あなたのいのちの重みに重ねて。

 

きっと私たちもあなたのように表の顔と裏の顔、さらにその裏の顔を持ち合わせていて、それらをうまく使い分けながら、より「他人受け」のする「セルフ・イメージ」をブランディングしているのでしょう。

 

 

あなたの脳内は快楽物質ドーパミンの分泌が人より多いのでしょうか ?

その時に音楽的パッチワークの才能がMaxになるのでしょうか ?

 

私は糖質依存の傾向が強いけれど、あなたの場合は ?

 

 

私は無意識のうちに勝手に偶像を創り上げた。いま、その偶像は地に落ちた。

 

やっとニュートラルに近い自分を思い出しはじめた。そのための偶像の創造だった。

 

私の音楽好きはこれからも変わらない。多分これから圧倒的な本物に出逢う。

 

「本音」の世界が色を取り戻しつつ。

 

 

※ Aに対する解釈はあくまでも「私個人の」、です。

  Aの才能も楽曲も貶める意図はありません。

  ただフラットに「受け容れる」自分が出てきた「いま」の感覚を言葉にしたかっただけです。

 

   もしかしたら私の魂の本質は「吟遊詩人系」なのかな、という想いとともに。

 

  サラスヴァティー意識 (人格神としての、ではありません )の活性化の合図でしょうか。

 

   ちょっと楽しみ。

 

 

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