「マスゲームの終了」。
突然浮かんできたこの言葉。
Wikipediaによると『マスゲームとは、多人数が集まって体操やダンスなどを一斉に行う集団演技。同調性の高い動作を行うことを特徴とする。集団体操ともいう』。
さらに『マスゲームは集団における連帯性の高さを来場者に示すパフォーマンスとして大型のスポーツイベントなどで集団遊技として行なわれている。また、工場においても集団体操は行われていた。日本でマスゲームという言葉が使われるようになったのは、1925年の第2回明治神宮競技大会からといわれている 』なんだそうだ。
この中で、
□ 多人数
□ 集団演技
□ 同調性
□ 連帯性
の言葉が個人的に引っかかる。
なるほど、「個性、個、オリジナリティ」の逆の理論なんだろうか。
上記にある『明治神宮競技大会』とはなんなのか。
こちらもWikipediaによると、
目的:明治天皇の聖徳を憬仰(けいこう。偉大なものを敬い慕う)し、国民の身体鍛錬、精神の作興に資す
性格:神事的体育行事
となっている。
天皇制の「パーツ」としての国民が一体となって天皇という神にささげる神事の位置づけという意味らしい。
その目的と性格が私の中で「終了した」とのサイン。ということは私が創造する世界において、「天皇制のパーツとしての自分」がなくなり、同時に「天皇制に捧げるための行動および神事的儀式」の終了がやってきたと捉えられるのかもしれない。
数日前から「マスコミ」の終了というメッセージが何回も浮かび上がっていた。
『マスコミュニケーション(英: mass communication)あるいは大衆伝達(たいしゅうでんたつ)とは、マスメディア(具体的にはテレビ、ラジオ、インターネット、新聞、雑誌、書籍など)を用いて、不特定多数の大衆(マス)に大量の情報を伝達すること。 略 マスコミュニケーションにおいては、送り手と受け手が固定されており、情報は一方的に伝達される (Wikipediaより抜粋)。』
ここでは、
□ 不特定多数
□ 情報は一方的
が引っかかる。
「コミュニケーション」とはそもそも「双方向の」とか「互いに向き合う」などの意味を含み、一方通行は厳密には「コミュニケーション」とは言わない。
そう、「マスコミ」という概念そのものが認知の歪みによって創られたものだったのだという驚き。
「マスゲーム」は大衆という単位が「権威」に捧げる「体操、ダンス」の意味であって、その主体は「権威」なのか、それとも「大衆」なのか、現時点では判断がつかない。が、そもそも「権威」がなければ「大衆」という概念も生まれず、「権威」がそれを欲したのであれば、「権威」主体の行為、概念と捉えられなくはない。
当エッセイはなぜかWikipedia三昧。これにもきっと意味がある。
もしかしたらWikipediaは「権威」側からみた情報がメインとなっているという意味があるのかもしれない。
いずれにしても私の意識が創造する世界では、「大衆という顔のない存在から個性をもった個体という確固たる存在が共に切磋琢磨し、共にたたえ合い、共に支え合い、共に尊重し合う歓びを味わう」という段階へとリニューアルした。
「権威」に何かの提供、捧げものをしなくてはいけない、という契約の世界を味わったからこそのリニューアル体験。
きょうから11月。
きょうは「111」の日。始まりの三位一体は何を意味するのか。
これから何が起こるのだろう、正しくは私の意識は何を起こすのだろう。
とても楽しみだ。同時にそらおそろしい気にもなる。それくらい宇宙は圧倒的なはずだから。
※ 私は社会人になって「マスコミ」人の仲間入りをしました。
当時「マスコミ」が善いものだとか悪いものだとかそんな意識はまったくゼロ。
いま、明確になったのはこれからの人生に必要なのは「マスコミ」ではなく「パーソナルコミュニケーション」。
さらにいうと「コミュニケーション」なんだろうとこれからの目的がよりクリアに視えてきました。
「コミュニケーション」は身体でいうと「ノド」のチャクラが司る、という概念がいまのところ一般的です。
そのチャクラを司るのは「大天使ミカエル」という記号のエネルギー概念ともされています。
ここでいう「大天使ミカエル」は羽根のついたキリスト教的存在ではありません。
私はすでに「宗教的概念」はすべて卒業させてもらいました。
ということは「天皇制」というこの国独自の宗教システムとも離れたところに自分の意識が「在る」ということでしょう。
だから「左」とか、もちろん「右」とか、そういうところにもいません。 厳密にいうのなら、「私は左ではなく右でもない、同時に左でもあり右でもある」というところに位置している何らかのエネルギー体なんだろう、ということが「現時点」での私の認識になっています。
これも「現時点」なのでこの先どう変わるのか自分でもよくわかりません。
先日10月30日は母の命日であると同時に今は亡き先代犬・華実・はなみの誕生日でした。
破壊と再生、の日。
当エッセイを記した時点で何かが崩壊し、同時に何かが誕生している。それを身体の奥底で感じるのが私の人生の楽しみのひとつ。