「日本」というカルトの虚飾の裏にみえるもの

言葉の尊厳、表現の自由を取り戻せ。

 

今朝突然浮かんできた言葉たち。

 

どうやら私の中の「言論統制」モードがとかれたようです。

 

さて、上級国民。

 

私がこの言葉を知ったのは2、3年前のこと。それまで漠然とした意味は知っていたものの、その本質が何なのか、についてはほとんどわからなかった、知ろうともしなかった。

 

ここに来てみえてきたのは、「日本」と名付けられたこの国では、「日本」になる前のネイティブなジャパニーズ・マインドを持った人たちと、この国に侵略、侵攻という形で入り込みこの国土を統一して、この国土に住む何種類もの民族を統一の名のもと「日本人」として設定しそれらを支配・管理するというマインドを持った人との二種類が交差してもつれていて、その後者のマインド、エネルギーをもった人々を「上級」としているらしいということだ。

 

「上級」に対して当然「下級」も存在するのだろう。「下級」とは前文の前者に相当する、この国土が「日本」という統一名称で呼ばれる前から住んでいただろう「先住民」あるいは「土着の民」、それに付随するエネルギーに相当する人たちのことではないか。

 

この時の「土着の民」は「この土地の人々、この土地に根付いている人々」という意味で決して蔑称ではない。私自身もマインドを探るとおそらく「土着の民」系ではないかと感じている。つまり、私は「下級国民」の部類。

 

ところがそもそも本来的には「上級」「下級」などの分類、区別はあるはずもなく、他者を「下級」として自分たちを「上級」とみたてたい人たちが自己都合により、国民を「上級」「下級」としたのではないだろうか。

 

これは以前、

 

この国の「穢れ思想」の本質、私的考察 ~ 【天津神、国津神】のもつれ 

 

の中で話していることとつながる。端的に言ってしまうと自分たちは穢れた「国津神」よりも清い存在だとする「天津神」のマインドとよく似ている。

 

「天津神」とは男性性優位の神仕組みを想定した場合の「神々」の総称。一方「国津神」とは女性性優位の神仕組みを想定している。

 

「天津神」のトップは「天照大御神」なので女性性優位なのでは、と捉える向きもあるかもしれないが、「天照大御神」は本来は男性神であったという説もあり、ことの真偽はわからないし神話の中での話なので、この場合の「女性性優位」についてはあくまでもそのエネルギー特性という意味で捉えていいのではないだろうか。

 

いずれにしろ、「上級国民」「下級国民」といった区別を想定したのは、「聖、または清」と「穢れ」の二元論を展開しているエネルギーと重なるものだということがわかる。

 

つまり、「天 =上 =聖」「国、地=下=穢れ」の二分だ。

 

さらにこれは「太陽神」「水神、地母神」の区別にもつながる。

 

前エッセイ 

 

井の頭公園 「 井戸の頭、水源 」 ~ 蘇る水神概念

 

の中で私は明治政府は「男性神、太陽神」のエネルギーによって展開され、江戸幕府は「女性神、水神」のエネルギーがうまく稼働していた、そして再び「いま」「女性神、水神」のエネルギーが蘇って、「太陽神」と「水神」のバランスのとれた両性具有の「女性神」エネルギーへとシフトし始めているのでは、と記している。

 

「女性神」のエネルギーの中には当然「地母神」も含まれている。

 

水の惑星、だから「水神」、地球、だから「地母神」、そこに本来の姿を取り戻した「太陽神」がもつれる感じなのではないか。

 

決して「太陽神」、つまり「上級国民」だけが突出しているわけではない、同時に「水神、地母神」、つまり「下級国民」だけが突出しているわけでもない、いずれもが均衡バランスのとれた形でもつれ合い、大いなるひとつのエネルギーへとつながっていく。

 

いま私たちの目に映っている景色は、「上級国民」が「下級国民」を支配・管理するために創った「カルト国家・日本」という虚飾のシステムの「破壊」と「再生」の同時進行シーンなのかもしれない。

 

彼らがしっかりとその「闇」をみせてくれているお蔭で、私たちはやっとこの時代に生まれてきた意味を理解することができるようになる。

 

一見「闇」もまた「ひかり」の一部であり、そのいずれもに優劣はないし、「闇」と「ひかり」と二分できるものでもない、「闇」であり、「ひかり」でもある。 私たちはその中の一部であり同時にすべてを包括した存在でもあるのだと。

 

本物の到来。いまはそのプロセスをただ観察する。

 

時を同じくして「日本」の首相が国連総会で「『核兵器のない世界』という理想に向けて、先人の努力により『主流化』した核軍縮の流れを確実に進めていくことが必要です」と述べた。

 

いまこの国では岸田首相を悪く言う人が9割はいるかもしれない。

 

私は個人的に岸田首相を信奉しているわけでもなく、だからと言ってアンチでもなく、ニュートラルな立場の人間だけれど、この発言の真意、意義を多次元的に捉えると驚きを禁じ得ない。

 

国連総会はどこで開かれたか。アメリカ・ニューヨークだ。

 

ニューヨークにはかの自由の女神像が建てられている。自由の女神の正式名称は「世界を照らす自由」。また冠の7つの突起は「7つの大陸と7つの海に自由が拡がる」という意味だそうだ。しかも「自由の女神」は古代ギリシャローマの大地母神「キュベレー」がモデルとされている。

 

「キュベレー」は死と再生の神。

 

ニューヨークには元々レナペ・インディアンと呼ばれる民族が住んでいたという。彼らは侵略者たちに姿を消された。あるいは彼ら自身が姿をくらましたのか。

 

それらの「先住民」「土着の民」スピリットが「いま」再生される、という意味を含んでいるのではないか。

 

そう、「上級国民」と「下級国民」の均衡バランスが取れ本来の姿に戻ることの暗喩。

 

ちなみに「レナペ」とは彼らの言葉で「真の人間」という意味だそうだ。

 

その地でわが国の「長」が『核兵器のない世界』という大きな目標について言葉を発した。

 

日本の「上級国民」は核兵器が大好きだったことを私ははっきりと認識している。彼らは核兵器によって日本だけでなく世界の統一をももくろんでいたはずなのだから。

 

なぜ日本のメディアは必要以上に岸田首相をボロクソに言うのか。

 

彼らの役割、立ち位置がくっきりと見えてくる。

 

同時に私たち一人ひとりがどこに向かっているのかも。

 

 

 

※ 当エッセイは2023/09/22に執筆していましたがアップは翌日になりました。

 

冒頭の3行は09/23に浮かんできたものです。

 

その時にもう一つ、人間のコミュニケーションを司っているとされる「大天使ミカエル」の名も浮かんできました。

 

「大天使ミカエル」については、私自身はユダヤ教、キリスト教などの一般的概念から外れた解釈をしています。

 

フランスのモン・サン=ミシェル「聖ミカエルの山」は、この国の弁天島と同じエネルギー、概念とする説があり、私は現時点ではそれを採用しています。

 

前エッセイでは東京・井の頭の「弁天、弁財天、弁才天」、その後フランス モン・サン=ミシェルの「大天使ミカエル」の概念エネルギーが私の中で活性化しているというサインなのでしょうか。

 

ということはこの世界の「水神系ネットワーク」が正常に稼働し始めたというサインなのかもしれません。

 

龍ですね、大蛇です。

 

私たちの内側の宇宙にたたずんでいる「龍 システム」「大蛇 システム」に真摯にこころを寄せる時がきたようです。

 

 

 

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