サイパン、わがこころの故郷 ~ 日本に浸透した「仏教」という名のキリスト教

本日8月28日。数字の並びだけをみると「828」、これを「ヤフーヤ」とみるという説がある。

 

この時の「ヤフーヤ」は新興宗教などにみる「ヤハウェ」のことではなく、宇宙根源意識としての「ヤハウェ」のこと。

 

そもそも「ヤハウェ」という発音、わかりにくく、発音しにくい、つまり「形」にしにくい存在、またはその意識概念という意味で「ヤハウェ」と表記しているとする説があるのだ。

 

その説によると「ヤハウェ」は「ハハウエ」の意味になるらしい。

 

大きな「〇」としての「ひとつ」。そもそものいのちの根源としての「母」。

 

 

先日、マウイ島・ラハイナの山火事の時に「本願寺」が燃えた、というニュースをみて私のハートが動いた。

 

私は無宗教だ。ただしわが実家は葬儀・法事の時は真宗系のお寺にお世話になっていた。両親はすでに他界しているので兄に理由を聴いたら、「昔、家の近くに住んでいた青年がお寺さんになって、そのご縁で何かあるとそのお寺さんにお世話になった」とのこと。檀家ではなく一ユーザーだ。

 

ハワイに本願寺 ?  気になって調べてみたら、「従軍布教」という言葉が出てきた。浄土真宗 (本願寺派) の教えが戦争や軍を肯定的に捉えるのに好都合だから、との理由かららしい。実は本願寺派の教えは = 親鸞の教えではないとみる向きもあるようだ。

 

先日テレビでサイパンの特集を組んでいた。

 

社会人になってはじめて行った海外が「サイパン」だった。当時は戦争のことなどまるで興味がなく、ただ青い海と青い空と何もない自然にひかれてのこと。以来、サイパンは第二の故郷とも思えるくらいに私にとっては大事な場所になった。

 

コロナになりサイパンに行けず、ようやく今年、それでもサイパン行きの直行便が少ないこと、またツアー料金などの高さからサイパン行きを見送った。

 

今年に入ってから明治維新や第二次世界大戦のことが気になりはじめ、今まで目を背けていたサイパンの戦争時の情報にも目をむけようと決意した。知らなければならない。玉砕の島といわば美化されて報道されていたサイパンだが、その実情は沖縄と変わらない。アメリカとの地上戦が行われ、日本軍は現地の民を苦しめ、日本の民間人を苦しめ、男性は女性や子供を苦しめ。

 

行く先には「死」しかない、そう「死」という選択肢しか許されない、この世の生き地獄としての光景がこの島に焼き付いている。そんな大事な「事実」でさえ、いまになってようやくその「片鱗」にたどり着いたレベル。それでもたどり着けてよかった。

 

そのサイパンにも「本願寺」があったと言う。なるほど。「戦争のある場所」になぜか「本願寺」がある。

 

浄土真宗、並びに本願寺について再度調べる。

 

その中で出てきたのは、親鸞上人が生前読んでいたとされる『世尊布施論(せそんふせろん)』という書物が、京都西本願寺に宝物として保存されていて、この本は、仏典ではなく、中国経由で伝わったネトリウス派キリスト教= 景教の経典だということ。(新約聖書、山上の教訓の漢文訳)

 

同時に終戦直後、進駐軍が、日本全国の宗教調査を行った結果、東本願寺には、なんと漢訳「馬太傳」(新約聖書マタイ伝)が宝物として存在するという証言があったということ。

 

この二点の情報の信ぴょう性はわからないが、元々「念仏を唱える」というのは「神の御名を唱える」キリスト教とまったく同じ考え方だという情報があり、なるほど、そうだったのか、と。

 

ちなみに日本に入って来ている「仏教」はすべて「キリスト教」の教えにそくしたものとする説もある。空海の真言密教しかり、そして親鸞の浄土真宗しかり。

 

仏教の開祖である釈迦の教えは「小乗仏教」と呼ばれ、個人的解脱を促すもの。そこには仏典や経典、仏像や寺院などは存在しなかったという。

 

日本に入ってきた仏教は一般には「大乗仏教」と言われる。記憶違いでなければ親鸞の教えは「小乗」に近いと言われていたような気がするが、それならなぜあんなに立派な寺院やご本尊が存在するのか。これもまた記憶違いでなければ親鸞はその手のものを否定したはずではなかったか。

 

いずれにしても日本の「仏教」に罪の意識や極楽浄土思想が組み込まれている時点で、それらは「キリスト教の教えを日本風にアレンジした新宗教」として布教が進められたとみる節があったとしても不思議ではないだろう。

 

マウイ島・ラハイナの報道の中で本願寺の僧侶が「御本尊様さえ持ち出せなかった」と話していたことが印象的だった。

 

本来の仏教は偶像崇拝を認めていなかった、というよりその必要性を感じていなかったはずだ。山火事という惨事の中で「いまのこの状況は本当につらいことだと思います。けれどその一方で本来の教えを取り戻すチャンスなのではないですか」との声が聴こえてくるような気がしたのは私の錯覚か。

 

現在、文化庁の宗教年鑑には浄土真宗として16の宗派が登録されているという。その中での最大勢力が本願寺派なんだとか。親鸞上人の「悪人正気説」を正しく理解し実践しているのは、また曲解しているのはどの宗派なのか。あるいはすでに親鸞上人の教えが時代の後ろ側に回ったという可能性もゼロではないのかもしれない。

 

あらためてそれらを見直すきっかけをもらえたような気がする。

 

信仰の自由、という言葉があるように、何を信じるかはその人それぞれだ。けれどもしその「信」に揺らぎが生じた時は、一旦手放してこころの均衡を取り戻すために自分自身に徹底的に向き合うという機会があってもいいのではないだろうか。

 

私は大好きなサイパン、そしてハワイを通じて、そのきっかけの端をのぞくことができた。

 

共に「海」のある島、共に「女神系」スピリットの島、共に「花のレイ、花冠」と縁がある島。同時に共に侵略と支配の歴史がある島、抑圧されてきた「地」の人たちの文化が息づいていた島。

 

何を想い出したらいいのか、上記羅列項目の中になにものかの「エネルギー」を感じた。

 

かの島々でいのちを落とした数々の名もなき存在たちの魂の叫びが私に当エッセイを執筆させたのかもしれない。

 

私に「想い出させたい」何かのために。

 

これが冒頭の「828」につながってくる。

 

私の魂は「国境」を超えた。

 

 

◇ 参考資料

浄土真宗とキリスト教

きょうはじめてたどり着いたサイトです。私とは異なる視点のサイト。この項目についてはわかりやすく書かれていたのでスポット的に参考にさせてもらいました。

 

 

 

 

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