「流し雛」。この言葉が突然浮かんできた。
「流し雛」とは、祓い人形に託した身の穢れを水に流して清める意味の民俗行事。一般にはこれが「ひな祭り」の起源とされている。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 によると、なんでも記紀には伊邪那岐命と伊邪那美命が国生みを行った際に、一度失敗して生まれた蛭子を葦の船に乗せて海に流したという記述があり、これがしきたりの起源ではないかと言われているそうだ。
少し深追いをしてみる。
すると「王権を脅かす穢れとして流された不具の子を憐れむ」という記述に遭遇した。この時の不具=穢れとなっている点に注目したい。しかも「穢れ」は「王権を脅かす」もの。つまり「王権にとって不具合を感じる、都合の悪い相手、しかもそれら王権の存在を脅かす相手」を「穢れ」としているのである。
さて、中世の日本には触穢思想(しょくえしそう、そくえしそう)というものが浸透していたらしい。
【触穢(しょくえ、そくえ)とは、神道上において不浄とされる穢に接触して汚染されること。神道においては人間・動物の死と出産、女性の生理は「三不浄」として忌避され、また、血の流出や神道における国津罪に相当する病気にかかる事も穢であると考えられてきた。】← 『ウィキペディア(Wikipedia)』 より。
ここに「三不浄」とさらに「国津罪」の文字が出てくる。「三不浄」はさておき「国津罪」とはなんだろう。調べてみると、どうやら「天津神、国津神」の「国津神」と関係しているらしいことが見えてくる。
簡単に説明すると、ヤマト王権の皇族や有力な氏族が信仰していた神が「天津神」。高天原にいる神々、または高天原から降り立った神々の総称。
一方、ヤマト政権によって平定された地域の蝦夷や隼人に代表される、元々の「地」の民が信仰していた地にあらわれた神が「国津神」。
( 個人的にはこの時の「神」という概念そのものが一柱としての人格神ではないのでは、と感じている。が、当エッセイでは記紀や一般的概念にならって執筆する )
この「国津神」は「反社会的」とされ、彼らの罪にあたるものを「国津罪」と設定しているようだ。そしてそれが「穢れ」。そう、目線は「天津神」。「天津神」に対する「反社」が「国津神」。
以上、『ウィキペディア(Wikipedia)』をはしごした上での情報なので理解としては浅いかもしれない。
が「王権を脅かす反社会的な存在、またはそれらと同調するエネルギー・ゾーン」を「穢れ」と設定しているらしいことはうかがえた。そこに人間・動物の死と出産、女性の生理という「三不浄」が加わっている。
これは男神を主とする男性・男制社会を「王権」「社会」と呼び、それに適合しない、あるいはそれを脅かす存在「抵抗勢力」としてのエネルギー・ゾーンを「穢れ」として忌避しているらしいということがわかる。
天津神の主祭神は天照大神。国津神の主祭神は大国主命。天照大神を「女性神」とする説、「男性神」とする説、両方存在する。大国主命は一般的には「男性神」の設定。ここでの「男女」の差異よりも、「天津神」は「天」、「国津神」は「地」のエネルギーの象徴と捉えた方が、より「穢れ」の本質に近づけるような気がする。
いま一度「穢れ」についてみてみよう。
【穢れ、汚れ(けがれ)とは、忌まわしく思われる不浄な状態。死・疫病・性交などによって生じ、共同体に異常をもたらすと信じられ避けられる。手や体を水で洗うことは目に見える汚れを落とすと同時に「穢れを祓う」ことでもあると考えられている。近・現代の自然科学的な説明体系では手や体を水で洗うことは「病原体を洗い流すために洗う」などと説明する。】 ← 『ウィキペディア(Wikipedia)』 より。
「流し雛」はまさに川の水に「穢れを祓ってもらう」行為。後者、「病原体を洗い流すため」というのはコロナでの感染対策に通じる。
はたして、いま「穢れ」とされているものは、本当に「穢れ」なんだろうか。絶対的「穢れ」ではなく、誰かとの対比による総体的「穢れ」ではないのか。
「穢れ」を忌避するということは常に、「対王権」「対社会」「対共同体」という意識の中で「男性神」主宰のもと生きるということ。それは「天」の神の意向と常識であって、もしかしたら「地」の神の意向と常識は異なるものなのかもしれない。
どちらが良い、悪い、ではない。どちらが上、下、でもない。どちらもがもつれあって、本来の「穢れ」概念として「真ん中」に戻るその方法論を探れはしないか、私たちに課題としてチャンスとして、その機会がいま与えられているような気がする。
少なくとも一見不浄と思える忌まわしい現象、存在などを「穢れ」として一方的に「祓ってしまえ」とばかりに排除するという思考の癖は、できるだけ緩和していきたい。
なぜなら、私自身が「穢れ」のエネルギー・ゾーンに配置分類されているらしいことは明確だから。
自分で自分を追い払うようなことだけは避けたい。自分を追い払うということは全宇宙を追い払うことにつながる。
私たちは長い間、自分と宇宙を切り離して生きてきた。いまこそ一人ひとりが全宇宙であることを思い出すチャンスなのかもしれない。
※ 「穢れ」について調べていたら、「原罪」という言葉にぶちあたりました。「原罪」については数日前に、「書かなくては」と浮かんできていたテーマです。
一つひとつネットで自分で調べていくという「アナログ」の世界にもこんなプレゼントが含まれています。
「デジタル」優勢の世の中だけど、「アナログ」にも良いところはあるはず。どちらもがお互いに支え合い、補完し合う関係がみえてくるといいのですが。