超健康主義と健康不安のもつれは何を生むのか ?

超健康主義とは何を意味するのだろう。

 

端的に言うと、「健康でなければいけない」「健康でなければ人間的価値が劣る」という価値観から、無添加だったり、無農薬だったりに固執することを意味するのではないか。

 

私はかつてこの道をたどってきた。

 

例えば食品に関しては、できるだけ無農薬、無添加を選ぶようにする。化粧品やシャンプーなども同じ。健食と呼ばれるサプリメントなども無農薬、無添加にこだわった。犬猫のフードやケア用品もそうだ。

 

できるだけ「化学物質」の少ないものを優先させる。

 

数年前からこの傾向は少なくなってきていた。

 

無農薬、減農薬、無添加にこだわりすぎると実は通常の生活ができなくなることに気づいたからだ。また、実際「健食」業界の知人から言われていたのは、「無農薬とかオーガニックとかうたっていても、本当にそれが無農薬かオーガニックかはわからないことが多い。すべてはメーカーの良心による」と。

 

超健康主義を実践する人たちの心理を探ると、その奥に深い「健康不安」があることに気づく。

 

「健康でなければいけない」「健康でなければ価値がない」と思いすぎて、「本当は私は不健康だ」という事実を受け容れられないが故の補償行為として「私は超健康志向なの」という「自己欺瞞」。

 

私もそうだったのだろう。

 

「本当は私、それほど身体が丈夫じゃないし」「本当は私そこいらじゅう身体が悲鳴をあげているし」「本当は私、肉体年齢がドンドン進んでいるし」などなど、潜在意識ではそう思っているものの、そんな自分には「愛される価値がない」「生きている価値がない」と感じる自分もいて、必死に「私はこんなにがんばって健康を手に入れてる意識高い系だわ」と自分で自分をごまかす。

 

そういう意識もあったはず、無意識の範疇で。

 

そのお蔭で私はたくさんの健康情報を手に入れた。東洋医学、ホリスティック・ケア。

 

いまはそこを越えて、ある意味超えて、もあるのかもしれないが、「より自然体」が私の柱になっている。

 

「自然体」とは「自然志向」「自然主義」とは違う。私の場合の「自然体」は「自然・じねん」、そう、宇宙システムの一部としてより均衡のとれた、けれどアンバランスも同時に兼ね備えた「その時々のベスト」を探るというものだ。

 

本来、これが「ホリスティック・ケア」の本質だったのではないか。ところがいつからか、いえスタート時点からか、ホリスティック・ケアは西洋医学に対する「補完代替療法」として、「ナチュラル・ケア = 自然療法」に近いものとの設定が常識化している。

 

「ホリスティック」にはすべてを包括する、という意味がある。ところがそのすべては「限定」バージョンだった。なぜなら、そもそものところで「本当のひとつ = すべて」を体現した人たちの理論ではなかったからなのかもしれない。その先を「超える」ためのGiftとしての設定。

 

いずれにしろ私は偏りすぎたナチュラリストをいやというほど見てきた。かつては私もその一人だった。

 

その残像が自分の中に存在していたことにきょう気づけた。

 

100%になっているかどうかはわからない。けれど私は「超健康主義」は卒業のタイミングに来た。

 

同時に食品、化粧品、犬猫も含めて自分たちのケア商品もより「自然体」で、が私のスタイルになる。

 

不思議なことに「超健康主義」の実践にはお金がかかる。「超健康主義」の裏に「拝金主義」があることにもきょう気づいた。

 

「身体にいいんですよ、この野菜」

「身体にいいんですよ、このサプリメント」

「身体にいいんですよ、このペットフード」

「身体に優しいんですよ、このシャンプー」

 

「身体にいいんですよ」の連呼は、「身体に良くないものは価値がない」という善悪二元論を膨らますことにつながることに「いま」気づく。

 

「身体にいいもの」をひたすら求めるにはお金がかかる。ということはお金に対してより強欲にならなければ私たちは健康になれないということになる。

 

「健康」はものすごくありがたい。

 

けれど「不健康」にだって意味はある。忘れていた本来の「健康」を取り戻すために一旦「不健康」にならなければならないことだってある。

 

「健康」と「不健康」にヒエラルキーはない。

 

「健康」もあり、「不健康」もあり、また「健康でもなく」「不健康でもなく」で私たちのいのちは成立しているはずなのだから。

 

「健康至上主義」、「拝金主義」、同時に卒業。できるかな。

 

 

 

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