ジジ転がし、という言葉がある。
一般的には「権力をもつ権威者の男性、ことに高齢の、その懐にうまくい入り込んで自分の人生を切り開いていく」というような意味で使われる。
ところがイミダス によると『ジジころがしとは成り金オヤジを骨の髄までシャブリつくして捨てる女』という意味で捉えているそうだ。
ちなみにイミダスは私がフリーランスになる前、出版社で編集の仕事をしていた時にお世話になった大辞典。以来何年も目にしたことがないのだがwebで「ジジ転がし」で調べたら真っ先にヒットした。
おそらくこのこと自体に意味がある。
「ジジ、じじ」という言葉はどう考えても高齢の権力者の男性に対して、あまり良い感情を抱いているものとは思えない。
そう感じるのは私だけだろうか。
ここ数日、デヴィ夫人について調べていた。彼女の経歴の「裏」らしきものに到達。ここではあえて詳細は記さないが、彼女の生き方はまさに「ジジ転がし」の典型だ、と分析しているサイトに到達したのである。
「ジジ転がし」と言えば確か数年前、都知事の小池 百合子氏についてもまったく同じ表現を目にした。
念のため記しておこう。
私は「ジジ転がし」がいけない、という立場でものを言いたいのではない。
ただ事実として、そういう現象、あるいは概念で自分の社会的立場を築いたらしい女性がいる、ということだけに着目している。
デヴィ夫人の「ジャニー喜多川」氏関連の発言がきっかけとなって、私は徹底的とまではいかないまでもデヴィ夫人の人となりのようなものを探り、あるいはそれらの周辺情報を読み取るということに時間を費やした。
その結果、なるほど、「ジジ転がし」の側面はあるのだろうと。良い、悪い、ではなく。
さらに広末涼子氏 ( 以下すべての敬称略 )の情報がたまたまいま目に入ってきた。
↓↓↓
「フジテレビの『FNS27時間テレビ』で明石家さんまが、自身のコーナーで広末に言及した。ドラマで広末の父親役を演じたことがあるため、娘のように心配してると擁護しました。広末の故郷の高知新聞も『やらかした娘を拒絶する家族はいません』と全面擁護。
ところがどちらも、43歳の広末を娘と呼ぶ高齢男性ならではの無神経さが反感と怒りを買い、『鳥羽シェフの妻子への配慮が全くない』『芸能人だったら何をしても許されると思うな』と、女性視聴者を中心に大炎上してしまいました」
↑↑↑ アサ芸プラスより引用
ここにひとつのつながりを発見。
「高齢男性ならではの無神経さ」
そう、見方を変えると広末涼子もまた「ジジ転がし」の才能があるからこそ、「高齢男性」がこぞって擁護しているのではないか。
くり返しになるが、私はここに名をつらねている誰のことも揶揄したいわけではない。誰にだって役回りはある。たまたまその時にその役割を担ってくれた人たち。
それらを「俯瞰」で分析すると興味深い事実がみえてきたということを伝えたいだけだ。
出版業界というのは男性社会で、確かに「ジジ」たちが権力を振りかざしていた。その中で私のようになんの後ろ盾もない女性は、トコトン「奴隷」のようにこき使われてきた。
それは私が「著者」になっても変わらなかった。担当者である「女性」編集者も私に対して同じ言動をとった。
彼女もまた組織の奴隷であり、けれど外注スタッフはさらに自分よりも身分が下だと捉えていたことは歴然としていた。
今さら恨み節を言うつもりもない。
ただ私の人生の経験を語ると、その構図はつい最近まで続いていて、おそらくいまも完全には崩れ去っていないはずだ。
過渡期。
私は権威に阿るのが苦手な人間だ、したがって「ジジ転がし」の才能はないに等しい。すべて自力で突き進むしかない。
一方、「ジジ転がし」の才能がある女性は、うまく男性の懐に飛び込み、自分の立場を守り抜く。
時にその発言は「保身」の塊となる。
なるほど、出版業界においての女性の能力に「ジジ転がし」という項目があったことにはじめて気づいた。逆に言えば、私にはその才能がなかったからこそ、そんな言葉すら意識したことがなかったのだろう。
いずれにしても、これはおそらくすべての業界に言えること。
それがこうして顕在化した、ということはそれらはもう不要になった、それらはもう形を変えざるを得ない段階に入りつつある、ということのサインなのだろう。
「イミダス」、私が出版業界の底辺作業員として地を這うような活動をしていた時のシンボル。その「イミダス」が「ジジころがし」のトップにあがってきた。
もう、ジジ転がし時代の苦しみから解放されていいいんだよ、そう、ジジにだけ「権力」があった時代は終焉に近づいているんだよ。
自分自身の意識を変容させる時の到来。
※ 私はフリーランスになって何度も、「なんでこんなことを言われるんだ」というパワハラ、モラハラ、セクハラを受けてきました。
もしかしたらこれは、場合によっては告発のタイミングが訪れているということではないでしょうか。
「テメェ、ふざけるな ! 」という言葉を何度飲み込んだことか。
けれど私はそれらを体験したからこそ、いま、ここにこうやって自分の足で立てているのかもしれません。
私の場合、告発よりも彼らを見返してやる、というエネルギーを使った方が建設的。いえ、見返すも何もはじめから彼らの「上」にも「下」にもなる必要はまったくないのだと。彼らに「阿る」必要は一切ないのだと。「転がす」必要もまったくないのだと。背中を押してくれる存在は私の真ん中にいだんだと気づくことができました。
時は私たちの味方なのです。
ここに到達できたのはデヴィ夫人のあの「一見」問題発言があったからこそ、広末氏の「一見」問題行動があったからこそ、です。
すべてのことを「自分の糧」にする。
自分自身の言葉を発するために。
神秘の作家 ~ 金色蜘蛛のお届けもの のエッセイを受けて。
きのうわがベランダに大き目の黒い蜘蛛が出現していました。
黒い蜘蛛は「波動が安定したよ、落ち着きが出たね」というメッセージを届けてくれているそうです。