毒婦の汚名返上なるか~いのちを悲劇で終わらせないために 【前編】
毒婦の汚名返上なるか~いのちを悲劇で終わらせないために 【中編】
※ 加筆
高橋お伝さんの話なのに途中で私の意識は完全に「高橋お元さん」と変わってしまいました。単なる勘違いではあるけれど、同時に執拗に「お元さん」としているのは結論を見出すために何かの誘導が入ったと認識しました。ここではあえてまちがいとせず、「お元さん」「お伝さん」の併記にしています。※
重くて執筆が進まなかったことの理由は、おそらく「高橋お元( ※ 正しくはお伝 )」さんという人の深い深い「哀しみ」ではないか、という想いと、当時の虐げられた女性全体の怨念ではないかという想い、そしてそのことを今まで何も知らずにのほほんと生きてきた自分の中の「人としての恥ずかしさ」、という奥深いところでの感情なのかもしれない。
正しく裁かれていればもしかしたら処刑されずにすんだかもしれない女性の性器を切り取って保存して、見世物にして、さらしものにして、いのち亡き後も辱めを与えて、それをゴミ置き場に捨てて。
それが男性、男性性、男性エネルギーのなせるわざ、なのだとしたら、女性、女性性、女性エネルギーはいまこそ懐をより深くするチャンスをもらっているのだろうと思う。
シュメール神話だったか、創造主の立場にあたる「女神」をその子供の「男神」が去勢する、という話があった。「女神」に対する「畏怖」と「嫉妬心」と「強い憧憬」から「女神」の本質を奪ってしまうのだ。
それがどんなにか世の中のバランスを崩すことにつながるのか、いまの世の中が証明してくれているのではないか。逆に言うのなら、たとえ「男神」であったとしても「女神」の肉体と精神を傷つけることはあってはならないことだということを私たちに気づかせるためのエピソードだろう。
「女神」を傷つけるということは自分の母を傷つけるということ、自分の母体、大元、根源を傷つけるということ。
ひいてはそれは自分で自分を傷つけることになるよ、という宇宙哲学の教え。一旦「傷つける」ことによってそのことが明確に浮かび上がる、という仕組みのもとで。
「女神」と「男神」の関係は、「男性」が設定している「それ」とは実は大きく異なる。
「毒婦」について軽く触れようと思ったら、もしこれが事実だとしたら、国家的機密につながりかねない情報に遭遇した。渾身のルポルタージュにも関わらずこの手の情報が一般に広く拡がりもせず、ある一部の読者の目にとどまっているということ自体「なにをかいわんや」という気がしなくもない。
それにしても高橋お元 (正しくはお伝)さんだけがこういう目に遭ったのか。世界中で「魔女狩り」と称して同じようなことが行われ続けてきたのではないか。
もしかしたら「高橋お元 (正しくはお伝)さん」の性器にはなにがしかの魂が宿り、いまなお生きていて、さまざまな形で私たちの前にあらわれて、大切なことを忘れないで、と伝えてくれているのかもしれない。それが「毒婦」と蔑まれたいのちの正体か。
女性の「性器」はいのちの源でもある。
「わかってるよね」と言われた気分。
いのちの源から目をそらすな。
「お元 (正しくはお伝)さん」という名前は「根源」をあらわしているのだ、といまふと気づいた。
調べてみる、「元」とは「元はじめ」の意味があり、「元始」、意味は「物事のはじめ。おこり」【『デジタル大辞泉(小学館)』】。
元始女性は女神、大母神、だった。万象の根源だった。
なるほど、ここでつながった。
【中編】でお話したように、もしもお元 (正しくはお伝)さんの保存された性器と「731」部隊との間に関係があるのなら、彼らはそこから「生命の根源」を探り出そうとしていたのではないか、「物質的に」。
となると、お元 (正しくはお伝)さんの切り取られた性器は、女性としての「悲劇」の象徴の側面をもちながらも同時にいのちの根源を精神的にも肉体的にも私たちに想い出させるという二つのエネルギーがもつれているものなのかもしれない。