毒婦の汚名返上なるか~いのちを悲劇で終わらせないために 【中編】

毒婦の汚名返上なるか~いのちを悲劇で終わらせないために 【前編】

 

「稀代の毒婦」とされたお元(※ 正しくはお伝、なぜかここから私の意識はお元さんと捉えている )の悲劇は絞首刑にとどまらない。処刑後、遺体解剖によって性器がきりとられホルマリン漬けにされ国家レベルの機関で保存されてきたというのだ。あまりにも現実離れしたにわかには信じられないこの事実、ことの真偽はどうなのかと調べるとある一人の男性がルポルタージュとして筆をとっていることがわかる。 

 

『毒婦伝説:高橋お伝とエリート軍医たち』の著者・大橋義輝(おおはし よしてる)はこの異常性の真偽をめぐって、 アポなしで該当箇所などに飛び込んでいったようだ。少し前で言う「突撃取材」。

 

本書は未読、調べる範囲で、の話だが、

 

に詳細レビューがのっていた。これを見る限り「驚く」どころの話ではない。以下は上記レビューより転載。

 

◇当時、腑分けという風習があり、死刑を執行された囚人は、医学発展という名目で解剖されることも多かったのだという。調べにより、お伝の腑分けを担当した人物として4人の軍医の名前が挙がる。そして局部の保存については、「多情の女ゆえ局部に異常発達ががあるのではないかという軽い気持ちで、ついでにやったに過ぎない」という内容の記録が残されていたのだ。

 

⇒ 【私論】 女性の「性器」をセックスをするためだけの物質・道具ととらえる発想。解剖をしたのは「エリート軍医」。彼らがヒトや女性、動物をどうみていたかが明らかになる。

 

そして、これが下記につながっていく。

 

◇ お伝の一部は東京大学医学部医2本館に保存されているとされていたが、東大医学部標本室では見つからない

◇ 国会図書館でお伝の「その部分」に関する論文が存在するのを発見。論文タイトルは「阿傳陰部考」、標本にされてから約50年の月日が経ってから書かれている。この論文は、その後『阿傳陰部考』というタイトルで書籍としても刊行されていた。そこにはタテ5センチ、ヨコ3.5センチほどのモノクロ陰部写真が掲載されており、この2枚の写真のコピーを、希望者に郵便切手50円で送付するというオマケまで付いていたという。

 ◇お伝の測定図を学術誌に発表した人物はK。測定したのはKの教え子N。この2人の正体を探っていくと、あの731部隊との関連性が浮かび上がってくる

◇敗戦直後、浅草の老舗デパート『若き人々におくる性生活展』でお元の陰部、「展示」、入場料、30円

◇『性生活展』から10年。お伝の陰部がまたも東京に現れた。その舞台は、なんと都内のビルのゴミ捨て場……。この時、名乗り出た持ち主が731部隊で「結核研究」班の班長を務めていた人物。戦後、ミドリ十字の前身である日本ブラッドバンクの取締役も務めていた人物

 

これが本当の話なのか、盛られたものなのか、あるいはまったくの「嘘」なのか私にはわからない。

 

ただ「731」との関わりが出てきたという事実に関しては個人的にストンと腑に落ちる。

 

「731」部隊が満洲で中国、韓国、ソ連などの捕虜を「マルタ」と呼んでいて人体実験に及んでいたらしいことは周知のことだろう。これを事実とするなら彼らにとって人間の身体など実験材料にしか過ぎない。そういう軍医を「エリート」としたその時代の仕組みが明確にみえてくる話ではないだろうか。

 

同時に私たち「社会」はそれを受け容れ、認めてきた。

 

ただ実際のところ、ことが起きたのは「明治」、それを論文にしたのは50年後、さらにそれらに関わったのが「731部隊」のメンバーか ?  そして戦後再び「731部隊」とのつながりと、タイムラグがあるのはなぜなのか、彼らの本当の目的は一体何なのか。

 

深すぎてまったくわからない。( 追記 後編の最後でその理由が浮かんだ)

 

 

 

毒婦の汚名返上なるか~いのちを悲劇で終わらせないために 【後編】

 

 

 

 

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