『「被害者」のふりをした「加害者」』。
いよいよエネルギーが動き始めた。性暴力被害者という立場からの解放 3 執筆のお蔭だろうか。
私たちは往々にしてどちらかと言うと自分は「被害者」だと感じる場合が少なくない。一方で知らないところで「加害者」、あるいは「加害容認」になっているケースがあることに気づいた。
例えば動物との生活。野生環境の中で野生動物と関わって生きている場合は別にして、家畜、ペット、使役動物とよばれる存在と共に生きている場合、または密接に関わっている場合、どうやったって私たちは「動物虐待」の加害者にならざるを得ない。
それが今までの「男性中心社会」の特性だ。もちろんその中に「女性性」「女性エネルギー」「女性」も含まれる、それらを容認してきた仲間として。
私たちは元々は動物のいのちをいただく、その準備行為としての「狩猟」のためにイヌと共存していた。当時のイヌはまさしくパートナーであり仲間だった。それが一般に言われる「縄文」時代。
「弥生」に入り、「農耕」が主の生活に変わってイヌは番犬になり、同時にイヌ自体を食べるという文化が生まれた。「農耕」は「縄文」の時代から始まっていたという説もあるが、ここではあえてその説は外す。
「縄文」ではイヌはヒトと一緒に埋葬された。「弥生」ではイヌとヒトは別々に扱われるようになる。
わかりやすいように「イヌ」をたとえにしたが、確かに「イヌ」だけをみても私たちの対イヌ目線は「縄文」と「弥生」の違いで大きく変わっていることがわかる。いまは「弥生」の延長上の世界がくり広げられている。それが「男性中心社会」。動物をヒトが「管理」「支配」するという概念が真ん中にある社会。
「イヌ」と生活する場合、その多くは「獣医療」に頼らざるを得ない。食生活も野生の「イヌ」のそれとは大きく異なる。「獣医療」とは「動物実験」をベースにして構築されたもの。「獣医師」になるためには必ず「動物実験」を経験する。「薬物」を活用する場合のベースも「動物実験」だ。たとえそれがホリスティック・ケアや自然療法、東洋医学をうたう獣医師であったとしても辿ってきた道に、動物虐待ととれる行為が含まれている。
獣医療のベースとなる「医学書」そのものが動物実験を含む動物虐待を容認したうえで成立しているものなのだから。
当然それらのサービスを利用する「消費者」もそこに加担する、あるいはそれを容認する、という立場になる、無意識のうちに。
この仕組みこそ、「男性中心社会」の要だという現実を受け容れる。自分自身も「虐待加害者」の側面をもって生きてきた、という事実を。
この現実を受け容れてはじめて「男性中心社会」だと「男性に比べると女性は性暴力被害者になりやすいな」「年長者と比べて若い、幼い男性も性暴力被害者になりやすいな」と語れるのではないだろうか。そこにあるのは明確な「力関係」だ。「権力」。
ではもし世の中が「女性中心社会」だったらどうなるのだろう。
「男性中心社会」がいけない、という意味ではない、「男性中心社会」だからこそ繁栄した文明、文化、構築された世界がある。それがあったからこそ、行き過ぎてしまったのかもしれない「男性中心社会」のひずみが可視化できる段階に到達することができた。
伝統芸能、芸能、スポーツの世界において、さまざまな膿出しが始まっている。この動きをなきものにはできない。一時的にエネルギーの封じこめに成功したようにみえたとしても、今度はさらに大きく爆発しかねない、活火山のマグマのように。
多くの男性、男性エネルギーが焦っているのはそのためだ。「男性中心社会」のひずみの可視化が「極」に達しようとしている事実をなかなか受け容れられない。
では女性、女性エネルギーはどうすればいまの男性、男性エネルギーをサポートできるのか。
それは女性、女性エネルギーもまた「男性中心社会」のメンバーだということを受け容れること。そのうえで、「これがもし女性中心社会だったとしたらどう考えたらいいんだろう」と一人ひとりが自分自身のこととして、潜在意識を深くほりさげていく。「受容」とは女性、女性エネルギーならではの能力だ。女性、女性エネルギーは男性、男性エネルギーよりさらに深い包容力を携えている。優劣ではない、単なる特性。
私に考えられる方法論はいまはそれだけ。
やってみよう。
世界全体を変えることはできなかったとしても、自分自身の世界観が本来の均衡のとれた状態を想い出すために。
そうすれば自ずと「性暴力被害者という立場からの解放」がなされる。