性暴力被害者という立場からの解放 3

なぜ私がいま「性暴力」について執筆しているのか、その理由の一つに私自身の唇のしびれがある。一か月ほど経つだろうか、突然唇のカサカサ、荒れ、そして軽いヘルペスのような症状があらわれた。

 

唇は女性性器のエネルギーと関連性がある、という情報をどこかで目にしたことがある。

 

唇の荒れ → 女性性器のエネルギーの動き → 女性性エネルギーの動き、ということだろうか。

 

また、むやみに他人に触らせてはいけない箇所として「プライベート・パート」というものがある。

 

【private part プライベートな部分 《one's private parts》陰部◇genitals(性器)の婉曲表現 『 アルクがお届けするオンライン英和・和英辞書検索サービス』より引用】

 

子供への教育では、この中に「口」も含まれている。多くの女性が「マスク」をし続けているのは女性性のエネルギーを必要以上に「加護」しなければいけない状況だとこころが捉えているせいだろうか。それとも女性性のエネルギーの更なる飛躍のためにエネルギーを温存し続けている状態か。いずれも潜在意識にきいてみないとわからない。それらは時代のエネルギーとリンクしている。

 

性暴力被害者という立場からの解放 1

 

性暴力被害者という立場からの解放 2

 

の中で、

 

◇ 「性暴力」とは、男性中心社会、家父長制社会特有のエネルギーのひずみの現象化のひとつ

◇ 男性中心社会において女性は男性より小さくて劣る存在との大前提が設定されている

 

との内容をお伝えした。

 

ここでは特に下段、「女性は男性より小さくて劣る存在」についてお話をしていこう。

 

『大は小を兼ねる』、大きい物であれば、小さい物の用途にも用いられる 【『Wiktionary』より引用】 の意味。

 

このことわざは大きさが価値の指針として絶対的条件となっていて、大きいものは小さいものよりも価値が高い、というような意味にも受け取れる。そう、女性よりも大きい男性は小さい女性の特性をも兼ね備えている、暗に男性は優性で女性は劣性だ、と言っているように受け取れなくもない、かなりうがった見方だ。

 

一般的にみて、男性は女性より大きい、だから女性より優れている、という価値観が暗黙の了解として組み込まれていることに気づく、これが「男性中心社会」の価値観。「衆道」「男色」文化のベースがここにうかがえる。

 

仮に「女性中心社会」の価値観ならどう受け取れるか。

 

「男性は女性より身体が大きいことが多いが、もちろんその逆もあり得る。女性より身体の大きい男性が一般的女性より優れていることもあり得るが、その逆もある。男女の違いは身体の大きさで決まるものではなく、仮に身体の大小の違いはあってもそこにあえて優劣基準をつける必要もない。人の身体の大きさはさまざまだ、同時に人の特性もさまざまだ。それらの一つ一つが尊重されてはじめて均衡のとれた社会が形になっていく可能性がみえる」。

 

まわりくどい表現だがおそらくこれに近い価値観が「国」「管理」「支配」が意識される前の、この地球での価値観だったと思える。文字文明によってそれらのたいていのものがなきものにされてしまっているけれど。

 

「文字文明とは ?  」

 

「大」、私はこの「字」は「男性中心社会」の象徴だと捉えている。「大」という字のつく名前は例外もあるかもしれないがたいていの場合、男性だろう。読み方としては「まさる」とする場合もある、「勝負」の「勝」と同様。ということは「勝負に勝つのは大きい存在」という含みにみえなくもない。

 

大日本帝国。

大本営。

 

大和魂。

大調和。

  

大和魂。なぜ「和魂」ではないのか。そういえば大日本帝国海軍建造による「戦艦大和」も存在した。今なら「宇宙戦艦ヤマト」か。

 

大調和。なぜ「調和」ではないのか、なぜ「大」の文字がついているのか。「調和」に「大」がつくことで「調和」のバランスが崩れることはないのか。もし「小調和」という言葉があったとしたらそれは「大調和」よりレベルの落ちる「調和」状態なのか。

 

こうして「大」のつく単語を並べていくと、それは「男性中心社会」の象徴としての「記号」だということがみえてくる。

 

もしかしたら私たち人間の「男性性」は自分をより大きくみせるため、感じさせるため、あるいは自分自身を「鼓舞」するために「大」の文字を意識的に活用してきたのかもしれない。

 

『大は小を兼ねる』、再度調べた。

 ↓↓↓

「大は小を兼ねる」の由来は、中国の前漢時代に書かれた儒学者・董仲舒(とうちゅうじょ)の書物である『春秋繁露(しゅんじゅうはんろ)』の中にある一文です。「夫それ已に大なる者あらば、又小なる者を兼ぬ」という文で、「賢者(大なる者)は愚者(小なる者)の振る舞いもすることができる。だから、天下で役に立てるのは賢者だけだ」という意味になります。【『小学館 Domani(ドマーニ) 公式ウェブサイト』より引用】

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なるほど、「儒学」だ。謎が解ける。

 

上記の流れを整理すると、

 

◇ 男性 → 大きい → 賢者 → 優れている

◇ 女性 → 小さい → 愚者 → 劣っている

 

という構図が浮かびあがってくる。私たちに無意識のうちに刷り込まれた価値観だ、男性であっても、女性であっても。これが結果的に二元論であるところの「差別」につながっていることは言うまでもないことだろう。これによって「差別」意識によるエネルギーのひずみによる「性暴力」の発生、というメカニズムが浮かんでくる。

 

性暴力被害者という立場からの解放 2

 

でお伝えしたように私は一般的女性よりも身体が「小さい」。小さい頃から大きいものに憧れ、時にコンプレックスを感じてきた。その感情があったからこそ、「大」は「男性中心社会」の暗喩なのでは、と気づけたのかもしれない。

 

性暴力被害者という立場からの解放。

 

自分の内側にある「男性中心社会」の本質に向き合うことで、自分の世界観が変わる、意識によるヒーリングが起きる。自分が認識する社会のエネルギーも変わってくる。

 

まもなくゴールはみえる、このテーマにおける。いや、まだその片鱗がみえはじめたばかりなのかもしれないが。

 

そもそも「性暴力被害者」という位置づけそのものが「男性中心社会」の価値観による「ひずみ」だということがわかり、肉体の目では「被害者」の立場にみえることもあるけれど本来的には「被害者」も「加害者」もない、ということがうっすらとみえてくるはずだ。それは肉体の目、ではなく。

 

同時に唇のトラブルが治る。

 

私たちの身体の仕組みはそうなっている。こういう解釈をするのは一般的に言うのなら「女性性」の働きによるものだろう。

 

当エッセイ執筆、苦戦した。

 

地球のエネルギーが揺れている時だから。私自身の女性性、男性性のエネルギーも均衡に向けて揺れている。頻発している地震のように。

 

わが街、昨日も地震が起きた。均衡をもたらし本来のところへ戻るための揺さぶり。ゆらぎ。みぶるい。

 

 

 

 

 

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