ペットロス。ペットと暮らしている私たちにとって避けては通れない課題ですよね。
私自身、過去にペットロスを体験し、特に愛猫・海・かいの旅立ちは数日の猶予があったものの突然死の形だったこと、何より海・かいは私にとって特別な存在、これはなんとなくそう感じる、というレベルではなく、最初の出逢いから何か特別な力の働きを強く感じたものだっため、どうしても「特別感」を感じずにはいられなかった縁ということ前提でお話していきます。
海・かいの旅立ち時、私はまるですぐにその哀しみを昇華できてしまったかのように、こころの中に海・かいからの「生と死」に対する力強いメッセージがあふれてきました。
当時は海・かいが旅立ちと同時に私の哀しみまであちらの世界にもっていってくれたのだろうと感じていましたが、数年経って、海・かいの旅立ちの辛さから逃げるために、私の心に防衛反応が働いて、私は辛さより旅立ちによるある種、清々しさのようなものを選んでしまったのではないかと気づいたのです。これは海・かいが亡くなってせいせいした、という意味ではなく、旅立ちの辛い面より光の面を優先してしまった。海・かいという存在は常に私にとって大きな光だけを与えてくれていたとの、今思えば「錯覚」、あるいは「妄想」。
現実には「光」と「闇」は表裏一体なので「闇」のない「光」意識は存在しないということが後からわかったのです。どちらもがあってあたりまえ。「光」だけを視ていると私たちの中にいつかひずみが生まれます。視ようとしなかった「闇」のエネルギーがうごめきだします。
この経験から、ペットに限らず自分にとって大切な存在が旅立った時は、思い切り哀しみを感じ切ることが大切だと、そう感じるようになりました。哀しみを感じ切ってはじめてそのエネルギーを昇華することができるのです。
そもそも重篤なペットロスになる人の心理的要因は、ペットと自分の境界線があいまいで自分をペットと同一視してしまったという点が考えられます。逆に言うと、ペットを自分と同一視してしまったこと。これは心理学的捉え方。
私の場合で言うと、海・かいは特別過ぎる存在だったため、海・かいと私の線引きがうまくいってなかった。私にとって海・かいは私自身であり、私の一部のような気がしていたのでしょう。同時にもしかしたらどこかで海・かいの中に取り入れられた私を感じていたのかもしれません。これは心理学フロイト理論でいうところの「取り入れ」という概念です。「取り入れ」とは一定の対象、その属性を心理的に自己の内部に取り入れること。
そのベースにあるのは私自身の自尊心の低さ、自信のなさです。これらは今だからわかることですが、当時はそんなこととは思いもよらず、ただ海・かいとは特別な何かを感じると思っていました。
そう、私は自分の中に心理的に取り入れてしまった存在を喪失する、その事実が受け容れられなかったのではないでしょうか。自分の一部になった海・かいを喪失するということは自分自身を喪失することに他ならないのですから。自分自身の一部を喪失したら、もう私は私でなくなると。その感情、認識を感じ取ることから逃げて、「海・かいという存在はなんて素晴らしかったんだ」という事実だけを心の中から引き出したのかもしれません。その海・かいと一体化した私も素晴らしい存在なんだ、と思うことで自分自身の低い自己評価と自己肯定感をごまかすために。
海・かいと私はエネルギー的に共鳴・共振するところが多かったのは事実ですが、個体としては別の生き物。別の生命体、別の魂を持った命である、という明確な線引きができなかった。海・かいを私の一部として取り入れることによって私は自信のない自分を少し大きく感じることができた、自尊心の低い自分を感じずにいれらた。
こうやって執筆していてはじめて浮かんできたこれらの意識たち。
心理学的にペットロスを視た場合、と言っても当エッセイは私の感覚で執筆しています。フロイトの「取り入れ」理論だけは参考にしていますが、それ以外はすべて私の感覚的なもの。
ということは数年経ったら私はまた別の「ペットロス理論」を思いつくのかもしれません。
いずれにしても「ペットロス」を重篤化させないためには、まず自分自身の「自尊心」を育むことが大切です。自信がなければ、自信のない自分を認識して受け容れて抱きしめてあげる。そうやって自分自身の心を成長させるためのひとつの「道具」としてペットという存在が私たちに与えられているのかもしれません。「道具」としているのはあくまでも「ツール」として、の意味です、動物君たちを「物」としてみているということではありません。
むしろ「Gift」の意味です。大いなる存在から与えられた大切な贈り物。
特に重篤な病気を発現化させたペットに対して私たちはその思い入れがより一層強くなります。
大切なことは、そのペットが存在しなくても私たちは十分価値のある存在だという事実で自分の心を満たす、ということ。自分が不十分だから、素晴らしいペットの存在をかりて自分の不十分さを埋め合わせる必要はないということです。
ペットは私たちにとって本当に大切な存在です。けれど彼らは彼ら独自の魂と役割をもってこの地球に存在しています。彼らの個性、彼らのお役目、彼ら独自のそのペット生のシナリオを尊重する、彼らの友として。決して彼らは私たちの付属物でも従属物でもありません。大いなる存在に力を与えられた、私たちとは独立した生命体だということを受け容れて。彼らの命を尊重する、ということは自分自身の命を尊重するということにもつながってきます。
彼らの生と死。それはこの宇宙にとって貴重なマターであるということですね。もちろん私たち自身の生と死も。そのすべてを受け容れることができるようになれば。現実にはむずかしいけれど、そこを意識しながら彼らとの新たな別れに臨みたいと思います。
もし万が一、今、重篤なペットロスで苦しんでいるとしたらトコトン哀しみを感じ切ってください。そこから目を背けないでいっぱいいっぱい泣いてください。哀しくて淋しくてやりきれない想いを感じ切った時、きっとあなたの中に新たな感情がわきおこってくるばすです。あなたの大切なあのコがそのひかりに導いてくれることでしょう。焦らず、ご自身を責めることなく、自分の真ん中を感じ切れるように。ご自身を愛おしみながら。
※ 追記 当エッセイの前のエッセイはこちらです 霊能者ではない私が霊能力について調べてみました
ここ数日私の周りにベタッと重苦しいエネルギーがはりついていました。今朝ようやくそれがはがれ、やっとエッセイ執筆にいたることができました。おそらく日本のエネルギーが変化する、その移行のための浄化の影響を受けていたのでしょう。
ペット君のお話なのに、ちょっと文章が重いのと表現がくどいのはそのためです。
それもまた今の「私」の表現です。