「私は愛されていなかった」と受け容れる勇気

「愛着障害」について調べていて、はじめてたどり着きました。「あなたは愛されていなかった」と言ってくれる本があることに。

 

「愛着障害」とは文字通り愛への執着が強い心の特徴。愛との距離感、関係性があまり得意ではないことを意味します。「障害」とついていますが、私は性格、パーソナリティー、気質のようなものと捉えています。先日亡くなった俳優・三浦春馬さんについて、私が最初に思いついたのは「彼は愛着障害だったのでは」ということ。

 

あの笑顔は愛着障害ならではのもの。海外で愛着障害として有名なのはマリリン・モンロー、そしてダイアナ妃。

 

日本ではまだこの言葉も一般的ではないので「彼が愛着障害なんて失礼もはなはだしい」と怒りの感情を持つ場合もあるかと思いますが、私自身が愛着障害気質なので、彼の笑顔だけでなく、彼の過去のインタビュー、周囲の人の彼の印象を聴くにつれ、100%ではないけれど、おそらく愛着障害で苦しんだのだろうことがわかります。くりかえしになりますが「障害」となっていても「その人の性格的特徴、個性」の要素が強いということです。

 

愛着障害の人は人に嫌われるのが死ぬほど怖いので、いつもとびっきりの笑顔で相手に気にいられることを望んでいます。そのかげで自分の本当の気持ちを抑圧して。それが一つの個性となって彼のような職業では強い武器になることが多いのです。

 

以前当エッセイでも「日本人のほとんどが愛着障害気質である」とお話したことがあります。愛との関係、両親との関係、特に母親との関係で、私たちは「自己愛」を成熟させることができず、幼いままの「自己愛」を抱えて、「愛してほしい、愛されたい」と、愛への強い渇望を抱き続けます。ちょこちょこっとその事実を自分で認識していればある程度の調整はできるのですが、自分にその認識がない場合、突然こころのバランスを崩したり、その結果、周りからみると「なぜ ?」という行為に突発的に走ったりします。

 

けれど一方、それが素晴らしい個性となってその人の生き方や作品に反映されることもあります。例えばマリリン・モンローは確かアルコール依存、あるいは睡眠薬依存だったと記憶しています。同時に彼女は男性依存でもあり、しかもとても努力家だったのです。いつもその個性を全身全霊で生きていた。そうしてマリリン・モンロー像を創り上げ、たくさんの素晴らしい作品をこの世に送り出した。

 

その根底にあるのが「愛の飢餓感」「愛への強い渇望感」です。

 

なるほど、ときょうたどり着いた本にひとつのヒントが書かれていました。それが『新装版 愛されなかった時どう生きるか 甘えと劣等感の心理学』加藤諦三著、です。個人的に氏のご著書はほとんど読んでいません。この本もAmazonのレビューに目を通したのみ。

 

そこにこうあったのです、「あなたは親から愛されなかった」と。

 

たいていのこの類の本には「あなたは愛されていた」と書かれています。「あなたの両親はあなたには不十分だったとしても彼らなりに一生懸命あなたを愛していたのですよ」と。

 

そういえば、私は以前児童虐待の本のゴースト・ライターをしたことがあるのですが、確かにそこには「虐待を受けて育った人はそれでも、自分は虐待は受けていない、自分は愛されて育った」と主張するものだ、そのこと自体が認知の歪みであることを本人は受け容れられない、というような主旨の内容がありました。

 

今、この本を手にしてみて驚いたのは、当時私は心理学も勉強していなかったし、潜在意識という言葉さえ知らなかったのに、よくこれだけ専門用語の並んだ本を執筆できたものだ、という事実。変な言い方ですが、誰かがとりついていなければとても書ける内容ではありません。ということはこの本はよほど私に必要だったのかもしれませんね。

 

執筆時は正直、「こういう生い立ちの人たちはたくさんいるのかもしれないけれど、私には関係のない話」と感じていました。そのこと自体、私が現実逃避をしていた、ということがわかります。

 

日本では「虐待」という言葉が持つ強さから、何か特別な虐待行為を受けた人たち、自分とはかけ離れた世界の人たち、という認識が多いのですが、中でも「心理的虐待」はそれこそ潜在性という意味でいうと、たいていの人は「心理的虐待被害者」であることがわかります。

 

人生において辛いことがたくさんあるのに「私は親から愛されて育った」と認識している時点で、虐待の事実から目を背けることに気づかずに。そして自己啓発本なのかスピリチュアル本なのか、「あなたはまちがいなく愛されて育った」と言われるわけですね。

 

私は愛着障害のベースに強い虐待行為・心理があるとの認識はありませんでした。今、再び自分の執筆した「児童虐待」の本をみて、愛着障害もまた心理的虐待によるものだ、ということが明確にわかりました。

 

そして、その「愛着障害」を受け容れる意味でも、「私は親に愛されていなかったのだ」という事実を受け容れることが必要なのだ、とわかったのです。

 

これは僻み根性でもなんでもなく、事実として「愛されなかった」。こんなことを受け容れたら私のこころはバラバラになるんじゃないかと思いましたが、まったく逆でした。

 

ホッとしたのです。少なくともあの家にあふれていたのは不安や恐れ、緊張感などなど。たまに「愛」と呼べるものがあったとしてもその絶対量は前者と比較にならないほど。

 

なぜなら、私の両親、特に母も愛着障害に違いない、と思えるところが多々うかがえるからです。残念ながら両親が他界しているため、すべて私の記憶と推察の中での話ですが。

 

愛の少ない家庭に育ち、よくここまでがんばってきたな。その想いの方がよっぽど自己肯定につながります。「私は虐待は受けていない、私は両親に愛されて育った」と自分の本心を抑圧するよりずっと。

 

不思議なものです、「そっか、私は愛されてなかったんだ、愛の少ない家庭で育ったんだ」と受け容れた途端、ハートがじわ~っと広がって、「今までよくやってきたね」と自分への愛がなんとも言えず心地よい塩梅で膨らみ始めました。

 

強がりでも屈折感情でもありません。素直に「あぁ、そういうことだったんだ」と。

 

愛着障害という言葉の意味がわからなくても、幼い時からずいぶんと辛い人生を送った、孤独感をたくさん感じた、いまだに人とどう付き合っていいのかわからない、だからはじめから人との距離を置いている、などなど、少しでも「愛との距離感」に不安を感じるようなら、ぜひあなたも「私は愛されていなかったんだ」という事実を受け容れてみてはどうでしょう。この時の「愛」は「無条件の愛」に近いものなので、私たちが普段感じる「愛してる」とか「大好き」という方向性の「愛」ではありません。

 

自分のあるがままを100%受け容れてもらう愛、です。

 

愛着障害の私が「愛」を語るのも変ですが、だからこそ私はこんなにも遠回りをしながら、「本当の愛とは何なのか」を追究しようとしているのかもしれません。

 

それにしても「愛されてなかった」という衝撃がこんなにもハートに響き、ハートがほぐれるなんて。

 

私たちは幼い時の記憶をたいていの場合、封印しています。辛ければ辛いことほど。

 

私は幼少期の想い出がほとんどなく、たまに思い出しても辛いことの方が多くて、私自身の脳に欠陥があるのかもしれないとも感じていますが、少なくとも私がいけない子だから愛されなかったんだ、という事実はあり得ないということに気づきました。

 

大きな、大切な一歩。

 

 

 

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※ 追記  当エッセイの前のエッセイはこちらです。霊媒体質、憑依体質、HSPの方、この時期特に「境界線」を強化しましょう !

 

三浦春馬さんの訃報を聞いて数日後、三浦さんの旅立ちに意識を向けた時、実はものすごい「孤独感」が伝わって来ました。その時点でどうしよう、そのことを書いた方がいいかな、と迷いましたが、まだその時にはそう表現する勇気がなかったので

孤独感、孤立感を感じていたらエンドレス状態に という記事内容にとどめておきました。

 

この時の状況を説明すると、この孤独感はとてつもないレベルのものでした、深い嘆きと哀しみの感情も伝わってきていました。

 

ただ霊能者でもない私がこんなことを口にしてはいけないだろうと感じてあえて三浦さんのことには触れずにいてきょうに至りました。

 

彼の作品からは「いたみ」が伝わってくるのです。だからこそ光り輝く演技を私たちに見せてくれていたのですよね。彼の強い苦悩と歓びが才能と愛にまみれて素晴らしき作品群を創出したのだと思います。

 

 

 

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