毒親支配からの脱却

「毒親」、あまりにも有名になりすぎたこの言葉。実は個人的にちょっと引っかかっています。

 

『毒になる親』、もちろん読みました。その他にも数冊関連書籍を読みました。実際「毒親に苦しめられた。何とかそこから抜け出したい」というお気持ちで私のセッションを受けてくださった方もそれなりにいらっしゃいます。私自身、一般に言われる「毒親」ほどではないものの機能不全家族の中で育ち、今でもまだそのこころの傷が残っているところもあります。

 

が。何か問題が起きると「親が毒親だから」との言葉で片づけてしまう風潮に疑問を抱いてもいます。

 

そもそものところで言うと「毒親」の要素がない親に育てられた人が本当にいるのか、と正直なところ。確かユング派心理学者の河合隼雄は著書の中で「一見聖人の親の子供は人生に苦労する。なぜなら無意識のうちに親のシャドゥーを強く投影されてしまうからだ」というような主旨の話をしていたような記憶があります。

 

そう、誰が見ても「毒親」と判断できるような場合もあれば、見た目には絶対わからない「隠れ毒親」のような存在があることも確かなのです。私の感覚では「毒親度のグラーデーション」の違いはあれ、どんな親も自分が気づかないうちに「毒親」になっていることは人として避けられないのではないか、ということ。

 

まず、この、「世の中に毒親の要素のない親は存在しない」の大前提を受け容れられるでしょうか。同時にそんな「毒親」もまた「毒親」に育てられたある意味被害者であることを受け容れられるでしょうか。

 

私自身の過去を振り返って、どうも私にはこの観点が欠落していた、と気づいたのはここ数年のこと。身体的虐待は受けていないものの親による「パワハラ」「モラハラ」なんて、かなりの頻度行われた気がするし、けれどその時に親も私も「これは心理的虐待だ」なんて感じたことはなくて。

 

そう、無意識のうちの「毒親化」。この事実を親御さんもまた子供さんも受け容れることができれば、その解決策に希望の光がみえてくるかもしれません。

 

私のカウンセリングを受けてくださったクライアントさまは、詳細はお話できませんが、ある方は「毒親による虐待被害者」を看板のようにして生きていらしたし、別のある方は、「もうあの人のことはあの人の自主性にお任せします」とまだ未解決の課題から目を背けていたし。そう、「毒親」による虐待被害者の私はものすごく不幸で、しかもその現実さえ見ないようにして、結果、「毒親」のグラデーションをご自身で色濃くしてしまっていたというケースがありました。

 

あと一歩が踏み出せない。私の力不足もあったと思いますが、彼らは「虐待された自分」をどうしても手放すことができませんでした。手放すとはその事実を認め、受け容れることに他なりません。それはおそらく「どんな親でも少なからず毒親要素がある」という基本を受け容れられなかったからだと感じています。

 

私はそれまで両親を「毒親」だと感じたことはありませんでしたが数年前、なんだ、十分毒親だ、と自然に感じることができました。そこからは徹底的に自分に向き合い、これは親のコントロールによる感情だ、これは親の支配による感情だ、というものを一つ一つ掘り下げていきました。そうすることによって、私の両親も何らかの毒親要素のある両親の中で育てられたのだろう、という現実に気づくことができました。同時に、両親が育った時代、もしかしたら社会そのものが「毒親」の要素を持っていたのではないかとそんな風にも感じることがありました。

 

いまだに時々両親からのコントロールによる心の傷がうずくことはありますが、それでもその解消の仕方、掘り起こし方がわかっているので、これはこれで感じ切ればいいのだ、と自分の心にさらに寄り添う時間を大切にするようになりました。

 

「毒親支配からの脱却」はすぐにできることではありません。たとえ親子の縁を切ったとしても自分の中に昇華しきれない負の感情が強く残っていれば、そのまま毒親支配の現実の中で生きることになります。

 

毒親、毒親と連呼するのではなく、毒親の元に生を受けた自分自身の人生の課題を思い起こしてみてはいかがでしょう。「私は〇〇という課題をクリアするためにあの親を選んだのだ」と。この現実もまた苦しくて受け容れられない場合があるかもしれません。「何言ってるのよ。あの人たちのことなんか選んだつもりはないわよ」と。

 

私は毒親に支配される、という他責の人生は卒業しました。私が生きるうえであの親の存在が必要だったんだ、という自責の人生に方向性を変えたのです。

 

前者のままだと私はいつまで経っても「支配者」の存在を必要とすることになります。後者の場合は「支配されている自分」ではなく、「自分自身の自立を促すためにあの親の存在があったのだ」と、その選択による経験を肯定的に捉えることができます。視点を変えたのです、立ち位置を変えてみたのです。いつまでも同じところにはまっていたくなかったから。

 

きれいごとではすみません、親子の関係は。そもそものところでエネルギーがお餅のようにベタっとくっついてしまっていますから。それでも、何とかベッタリをはがしていこうと時間をかけて自分を育てていけば、親の存在がなくてももう大丈夫だ、という自分を取り戻すことができるはずです。

 

私の場合両親が他界してからこのことに気づいたので、なかなか遠回りをしてしまいましたが、それでもここまで来ることができてだいぶ気持ちは楽になりました。

 

私たちの人生に苦悩はつきもの。いくら楽しく幸せに、と願っても現実的に苦悩のない人生はあり得ません。その現実を受け容れる。そして両親の「毒親度」を客観的に判断する。さらに「今のこの感情は本来の私のものではなく、両親のあの言動に起因した歪みのある認識に基づく感情なのだ」と受け容れ、より深く深く一つ一つの感情を掘り下げていく。

 

そうすることで「毒親支配」という概念そのものが和らいでいきます。

 

時間はかかりますよね。でも向き合えば向き合った分だけ自分の心の傷は癒されていく。その体験をするために私たちはあえて毒親要素の高い両親の元に生まれたのです、魂レベルでのお話。その事実を忘れてしまっているから苦しみ続けてきたわけですけど、そのことを想い出せば、自分の中の両親に対する負の感情にもちゃんと向き合っていくことができるのではないでしょうか。

 

毒親=支配者。毒親による被害を受けた子供=被支配者。そもそものここのところを自分の意識で切り崩していくことができれば、ほんの少しずつ自分のハートが真ん中に近づいていきます。それをできるのは自分自身だけ。もちろん誰かのサポートが必要な場合は、適切なサポーターを探すに越したことはありません。

 

私はこの作業を6年くらいセルフで続けています。セルフだと限界がある気がしますが、すべて体験として自分の中に情報が蓄積していくので、創造の歓びがあることは確かです、たとえ遠回りだと感じたとしても。

 

デリケートな課題ですが、デリケートだからこそ専門家の力が必要な時はちゃんと頼ってください。なんでも一人で抱え込まないように。セルフで取り組んでいる私がいうのもおかしいかもしれませんが。

 

 

カウンセリング&電話相談

著書・著作

新時代型メール・マガジン

エッセイ一覧 

 

  

※ 追記  当エッセイの前のエッセイはこちらです。「優性」「劣性」概念から「顕性」「潜性(せんせい)」へ

 

親からの支配、コントロールが強い場合、そのご本人も誰かに対して支配者になってしまうことがあります、無意識のうちに。

 

そう、ああいう風にだけはなりたくない、と思っていた親の姿をなぞることが自然な流れとしてあらわれるのです。

 

「毒親」と思えるあなたのご両親もそうやって「毒親」の背中をみて育った人たちです。その連鎖を断ち切るのにはとても勇気がいりますが、少しずつでも達成していければ、そこに大きな歓びが生まれますよね。その歓びを体感するための私たちの両親だ、ということではないでしょうか。

 

 

 

サイト内検索

お問い合わせ

メモ: * は入力必須項目です

ページTOPへ戻る