影を光に転換させる。そのためには影を愛し、影をありのまま受け容れなければなりません。影だから、とジャッジして光より劣るものとした途端、また新たな影を創り出してしまいます。
きのうのこと。強烈な孤独感、孤立感がわいてきたのでそれらを愛そうとただ感じていたら、「淋しいよ~、一人ぼっちだよ」という思いがどんどん膨らんで半ばエンドレス気分に。特に左半身の体感が半端ではなく。左半身は女性性の課題のあらわれ。
何だろう、今は亡き母の思いなのか、とにかく感じても感じても消えません。卵巣に強い痛みを感じたので、出産とか出生に関わる感情なのか、もしかしたら集合意識につながってしまったのか。
時間が経ってやっと左半身のみの体感だったものが体の真ん中、タテのセンターに戻り、今朝はそれがスッキリ消えていました。
孤独感や孤立感は本当に孤独だったり、孤立だったり、の状態にあるわけではなく、その人、今回の場合私の母なのか幼い自分なのか、あるいは全世界の女性性エネルギーなのかその辺は定かではありませんが、とにかくそれらの対象物が「勝手」に「孤独だ、孤立している、ひとりぼっちだ」と感じてしまっている、そうした感情のこと。
そして今朝わいてきたのは「共同体」とか「ネットワーク」「社会性・社交性」などの概念です。
私たちの命は元々全体性の中で存在します。全体的なネットワークのひとつとして。ところがそのネットワークを感じられず切り離された個の存在、という意識が膨らむと、私たちは孤独感、孤立感に苛まれてしまいます。そもそもの認識がずれてしまうのです、「私は全体のうちの一部だ」というものから、「私はすべてから遮断された孤独な存在だ」と。
なぜこのタイミングで出てきたのか。今、誰もが不安を感じている時だからなのかもしれませんね。不安、というのもそもそもは分離感から生じるものなので、その意識が膨らんでいる、ということは言葉を変えると、ものすごい統合のチャンスが訪れているということです。
キリ離された個の存在が、大いなるすべてとのネットワークの中に戻っていく感覚、それが統合です。
個々の有機体としての命、けれどそれは全体性の中の何かであるということ。
私個人あるいは母の感情を感じ取っただけなら、その前進は狭い範囲でのこと。仮に集合意識につながっていたとしたら、全体性につながった集合体そのものが前進できたことになります。
エンドレスと表現したくらいですから、相当なエネルギー量が影から光に転じたはずです。もしあれが個人レベルのものなら、私の中で感じた過去最大レベルでの影エネルギーの転換が起きたことになります。
このタイミングで「個」が「全体性」へと回帰してくれた。同じタイミングでこのエネルギーに共鳴してくださったどなたかかがいるのかもしれません。
ちなみに「個」の依存性は「社会・全体性」で捉えると相互依存に変わると言われています。依存と相互依存は似て非なるもの。前者はエネルギーの奪い合いである一方、後者はお互いのエネルギーの循環による創造性のこと。
ここまで執筆したら、急にのどから大量の唾液と咳が噴出しました。手のひら一杯分ぐらいの唾液が飛び出してきました。こんなことははじめてです。ノドにつまっていたエネルギーが解放されたのかもしれません、ノドには「コミュニケーション」と「創造性」を司るエネルギー・センターがあると言われています。ヒンドゥーの伝統による「スロート・チャクラ」です。「スロート・チャクラ」は自分自身とのつながり、そして他者とのつながり感による何かを生み出すエネルギーを象徴しています。
もしも「孤独感」「孤立感」で苦しんでいる方がいるとしたら、それは自分自身の深いところでの「勘違い」が原因です。「淋しいよ~、一人ぼっちだよ~」という意識がわいて来たら、その感情にただただ向き合ってあげてください。その感情を受け入れるのです、ジャッジせず。その行為そのものが「自愛」につながります。
その結果訪れるのが全体性。
私たちの命は神秘に満ちています。その神秘は誰にでも備わっていて、奇跡でもなんでもありません。ある意味奇跡ではあるのですが空気のようにあたりまえに在る、すべての命にとってありがたい命の仕組みなのです。
※ 追記 当エッセイの前のエッセイはこちらです。にせものたちの言い分
今朝わが街では大きな雷が鳴り響きました。『ユング心理学へのいざない~内なる世界の旅』(秋山さと子著)によるとかなり大きな変容のニサインだそうです。
前エッセイにせものたちの言い分の追記でも私はユングの共時性についてお話しています。無意識のうちに「ユング」の名前が二回続いています。これ自体がシンクロニシティ。
共時性。なるほどそもそもこの概念こそ「個」ではなく「全体性」の仕組みから出てきたもの。