いゃあ、びっくり。そう、びっくり。ここにきて自分自身の掘り下げにはまり、手こずっていました。エッセイ執筆を、と思いながら、どうしても自分自身との対話にエネルギーが向いてしまう。
そのお蔭で、というか、やっと出てきてくれたのは「現実逃避な自分」。
私はどうやら現実逃避をしていたらしいという事実。「現実逃避はいけない」という思い込みが反転してどっぷり現実逃避していたようすです。
そもそも私には「こころに隙間」があって、その隙間を感じたくなくて、その隙間を埋める対象を外に求めていたらしいのです。
これはいわゆる「依存症」の症状。依存症は誰にでもある気質、素養なのですが、それを「いけない」と思いすぎたがゆえにそこにはまって抜け出せなくなる。そう、底なし沼状態にはまります。そもそもその沼の正体は何かというと愛の飢餓感。言葉をかえると母親への強い愛情渇望。この時の母親というのは自分の母親に限定されない一般的に「母親というものは」という概念、さらにいうと大きなくくりでの「母性」です。
日本はそもそもが母性社会である、というユング派心理学者・河合隼雄の理論にあるように、日本は男性社会、縦社会でありながらその根底で「母性社会」という深いエネルギーに包まれた国。そう、これこそが日本という国の根源エネルギー。「母性」が底なし沼のように私たちをその沼にひきずり込んでいる。
母性というとマリアにみられる「聖母性」が一般的。実はもう一つ、地面の中にぎゅうっと引き込んで絶対に子供をはなそうとしない負の側面の「母性」があるというのが、ユング心理学による「グレート・マザー(太母)」の理論です。母の両義性、すなわち『善母・慈母』と『悪母・害母』。
※ この呼び方の参考 https://charm.at.webry.info/201606/article_9.html
私たちは一般的には母に対して『善母・慈母』のイメージを抱いています。ところがたいていの場合幼少期にそれを得られらないまま何らかの形での『悪母・害母』のイメージが私たちのこころに記憶されています。この部分の理解がなされない中で成長する私たちはいつまでも母に対する「聖母」のイメージと、その実の「害母」とのギャップを埋められず、また実際自分の母に「害母」のエネルギーがあること自体を受け容れられなくて、それが愛の飢餓感となって心に残ってしまいます。いつまでたっても「害母」エネルギーと統合することができないまま。そのこころの隙間を「依存症」という形で、他の何かに埋めてもらおうとする。
これはユング理論の一般的解釈というより、今こうして執筆している中で私に浮かんできた私流解釈による現実逃避の仕組みです。
簡単にいうと、母性には『善母・慈母』と『悪母・害母』の両面がある。ところが、たいていの母親はともすると『悪母・害母』のエネルギーを強く持っていて、母親に愛されたい、母親に認められたい、母親を幸せにしたい、と思って生まれてきた子供は、それができなかった事実を「自分がいけない子だったから」という感情に置き換えます。決して母親に『悪母・害母』の側面があるとは受け容れず、さらにその、『悪母・害母』の概念そのものをいけないものとして自分の中に抑圧し続けるために、『悪母・害母』エネルギーの象徴ともされる底なし沼への抱き込みをいつまでたっても自分自身の人生に投影し続けてしまうということです。
ちょっとした負の側面からのマザコン。マザー・コンプレックスは一般的に男性のもの、と言われていますが、実は女性もマザコンです。すべての人間が母に対して、あるいは母性に対してコンプレックスをもっています。
それが結果として「依存症」としてあらわれます。その大元の感情は「現実逃避」。それを私自身もやっていた。あぁ、そうか、そうだったのか、とやっとそのことが腑に落ちました。母は私の望む『善母・慈母』ではなかった。そんなことを思うなんてなんてバチあたりなんだ、と『悪母・害母』の概念エネルギーそのものを自分の中に抑圧し続けてしまった。そのエネルギーこそが現実逃避を生み出し、私の依存症を強固なものにした。
きのうカウンセリング・セッションを受けてくださった方が、「う~ん、ほんと、根深いんですね、私たちの問題は」とおっしゃったのですがその通り。
私自身、自分の闇にトコトン向き合うということを6年ほど続けてきました。それでも未だにこんな掘り起しがなされる。これは一生続きます。一朝一夕で「はい、クリア」なんてことはありません。その一方でこの掘り下げをするたびに自分の中で意識の拡張がおこり、同時に波動階層の拡がりがわきおこります
そう、今回はたまたま「現実逃避な自分」との対面でしたが、これがさまざまなテーマで展開し、その都度意識のグレード・アップが行われるというお楽しみつき、ということです。
ユング理論はなかなかむずかしい。専門的に学んでいない私には不可解な部分も。が、なかなか深いところをついています。その端っこをちょっと使わせてもらうだけで自分の掘り下げがスムーズにいく場合もある。
母との関係は人間関係そのもののひな型になります。母との関係から目を背けている限りこの意識の拡張にはいたりません。母、母性とガチで向き合う。私たちにとって母とはある意味カミと同じレベルで立ち向かうべきパートナーなのかもしれないですね。
依存症は誰にでもあるこころの傾向ですから気にすることはありません。ただしそれがあまりにも顕著で自分の人生を苦しめている場合は、その対象物を遠ざけてもその課題は根本的には改善しません。こころの仕組みを掘り下げて、たとえ辛い感情がわいてきてもそれをしっかりと受け止めることが大切です。なかなかシンドイ作業です。がシンドイ作業だからこそ拡張度合いが大きくなる可能性もあります。深刻になりすぎず、けれど真摯にむきあいたい人生の大切な宝物ですね、きっと。
※ 追記 当エッセイの前のエッセイはこちらです。鳥の応援団、続々登場 !
当エッセイはやっとたどりつきました、「無力感」の大元の感情は胎内体験にありました ! の流れから出て来ました。
ユング理論によると母、母性と対峙することは万人に共通した課題である、との捉え方がなされます。もちろんユングの理論が絶対ではないですし、また心理学そのものが絶対ではないということを踏まえながら、それでも人生に苦しむ人たちの救いのヒントの一つであることは確かです。
母、母性、胎内体験、胎内記憶。どうもこの辺が私の人生の課題であるような気がしています。依存症で苦しんでいる方のお役に立てるかも、という流れがクッキリと浮かび上がってきてくれている。これも私の依存症体質のお蔭。