愛犬・華実とのお花見散歩。自然は優しい。歩いているだけで心身を癒してくれます。そのお蔭なのでしょうか、突然浮かんできた「社会不適合」という言葉。
お散歩から家に戻り調べてみると、大笑いしてしまうほど「はいはい、そうです、私のことです」みたいな項目がたくさん並べられています。大きな特徴としては、人見知りをする、協調性がない、自己中なところがある、といった感じ。
まだまだいろいろありましたけど、まぁ、このくらい多かれ少なかれ誰にでもあるんじゃないの ? というのが本当のところ。
そしてこれらの特性のある人は、芸術家、アーテイスト、同じかな、あるいはクリエイターなどに向いている、としている情報があり、ホッとします。
そもそもそういうハミダシモノみたいなところがあるから芸術が生まれるわけです。みんなおんなじ、みんな一緒、みんな人付き合いが上手、コミュニケーションも上手、みんな秩序をちゃんと保っている。そんな社会っておもしろいですか。
私はそもそもが人と変わっているので、そういう社会はつまらないなぁ、と感じます。自分を正当化するように聞こえるでしょうか。
ところがですね、あるサイトでは割と肯定的に捉えられている「社会不適合」という個性が、「治さないと人生うまくいかない」まで書いているところがあって、なるほど、情報ってその人の価値観でいくらでもバイアスがかかるんだな、ということに気づきました。おそらく前者の傾向の情報発信者は「社会不適合って誰にでもある特質だし、もちろん自分にもあるし、だから排除するんじゃなくてちゃんと適材適所みたいなものを伝えたいな」という思惑があり、後者の傾向の情報発信者は「社会不適合であることはいけないこと、恥ずかしいこと。そんなところ自分にはあるはずはない」と感じながらの考え方なのではないでしょうか。
心理学的に言えば、後者は「自分の社会不適合性を抑圧する心理」によるものです。
さて、私はどう感じたか、自分自身をどうみるか、と考えてみると、私の潜在意識、深層心理は「社会不適合な私」の部分を抑圧していたように感じます。社会適合者と社会不適合者の二つにわけて優劣をつけていたのかもしれません。
が、実は誰にでもそういう側面はあるのでどちらが良い、悪いではなく、社会に適合できている自分もできていない自分も全部ひっくるめて自分だから、そのままを自分を受け容れようよ、という、そんなメッセージを含んでの突然の登場だったような気がします。
日本人って「和」の思想が強いから、何かあると「ハミダシモノ」を排除する、という傾向が生まれやすいけれど、これだけの多様性の時代、もちろん社会のルール100%無視では生きていくのは大変だと思います、が、そこそこの「無視」だったり「不適合」はケース・バイ・ケース。もしかしたら時にそうやって自分を守る必要性が生まれることだってあるかもしれません。
私としてはまったく個人的に「優等生モード」の自分に抑え込まれていた「社会不適合」な自分がいよいよ顔を出してくれて、そのどちらもよい塩梅につきあっていければいいな、とそういうタイミングが来たことに歓びを感じています。
なんでも「良い、悪い」、「白黒ハッキリね」みたいな考え方は時に自分の幅を狭めることにもなりかねません。確かに「YesオアNo」をハッキリさせなければいけない時もありますけど、良い塩梅、中庸が役立つ場合だってありますものね。
「社会不適合」で困っているあなたも「社会に適応できている瞬間」も必ずあるはず。それに「社会不適合」だと「個」の中にいい意味で埋没して世の中に個性的な情報、作品を発信する機会にも恵まれたりします。人間関係で苦しんでいない人なんてこの世にいるわけがありません。みんなそこそこ苦しんでいる。それを自覚しているか自覚していないかの違いはあっても。また、その度合いが大きいか小さいかの違いもあるでしょう。
それを個性、というのではないでしょうか。欠点、と長所、どちらもがあるのが私たち人間の真実です。それに自分では欠点だと思うことが人から見たら素敵な長所になることだって少なくありません。
きのう、テレビで紹介していたある画家さん、私的にはぶっ飛び加減が最高におもしろい天才だと感じました。では彼が社会適合者かと言えばまちがいなく社会不適合な部分の方が大きい。だからこそエネルギッシュで素敵な作品が生み出されているのです。そういう天才、少なくないですよね。
私たちはみんな同じであるはずがない。中には社会に適合するのが苦手な人がいたっていいんです。というか、そういう人から教えてもらえることだってたくさんあるんですから。
自己弁護だとしても、私はそういう捉え方をしています。私の「社会不適合」なところ、しっかり受け容れて上手に共存していこう、と。そういう私を排除しようとする人がいても「どうぞ」と言える余裕をもてるように自分で自分を大切に想っていきたい。自分の個性をちゃんとこの世界で活かせるように。
※ 追記 当エッセイの前のエッセイはこちらです。魂の硬直、ほどけるのか ?!
きのう法事のためお散歩できなかったのですが、きょうはなぜなのでしょう、人が少なく、華実とのお花見散歩、かなり贅沢に楽しめました。桜の足元につつじやサツキが咲き始めて、季節はみんな「一緒」という感じ。桜の季節、つつじの季節、という区切りがなくなってしまったかのようです。
これって実は時間は途切れているものではなく、常に「終わりと始まり」が同居している状態で連続しているモノ、ということのあらわれではないでしょうか。あるいはここまでは◎◎、ここまでは××といった明確な区切りが消えて、みんな融合し始めているとか。
なかなか興味深くなってきました。