ちょうど雨が上がっていました。雨上がりの公園は人も少なく、空気が綺麗にあらわれているのでちょっとした森林浴気分を味わえます。
一つ目の公園、その名前に「弁天」の文字が含まれています。弁財天、私的にはヒンドゥーのサラスヴァティがらみの縁を感じる植物園チックな公園。夏には睡蓮の花も咲く、お気に入りの公園のひとつ。
咲いているお花は梅、河津桜。花壇にはビオラやストック、葉牡丹など、この季節おなじみの花が色鮮やかに植えられています。葉牡丹は今シーズン、ブームだったんでしょうか。今までの巨大なキャベツタイプのものだけでなく、バラのように見える可憐なタイプが何種類もその美しさを競い合うかのように。ちなみに今のシーズンの葉牡丹はまさに「葉っぱ」です。春になると小さなお花がニョキニョキと顔をのぞかせてその表情が一変します。
公園内の小さなビオ・トープにカエル。冬眠中でした。都心に近い、埋め立て地のわが街のようなところでも自然はたっぷり。お散歩コースがあるのでなぜか二周まわりました。
二つ目の公園。こちらに咲いているのは河津桜。開花している木、これから咲くぞ~と待ち構えている蕾がたくさんの木、その比率は3対7ぐらい。雨上がりなので鳥君もたくさん集まっていて和やかな雰囲気。しばし桜浴。
この二つの公園を車ではしごしてお散歩し終えたら、再び雨が降り出しました。私たちのお散歩が終わるのを待っていてくれたかのようです。
家に戻ってきたら、雨のデトックス効果なのか、花たち、鳥たちの癒し効果なのか、気持ち良くて仕方ありません。ポワンとした気分。
浮かんできたのは「親愛」という言葉。「親愛」とは人に対して親しみや愛情を持つ、という意味です。
ふと、そういえば私はきのうの真夜中突然目が覚めて、「猜疑心」という言葉に振り回されていたことを想い出しました。どうやら昼間あった、ある人の感情をキャッチしてしまった様子。その人の顔が頭から消えなくて困りました。「猜疑心」をしばらく感じていたら、「あ、これは私自身のエゴが私自身のハートに対して感じているものだな」と、そんな考えが浮かび上がってきました。私のエゴが私のハートに対して「信じられない」と強い感情を抱いているのだと気づいたのです。
そこまで来たら、すぅ~っと「猜疑心」が消え、知らないうちにまた眠りについていました。
「親愛」、調べてみたらそれは「猜疑心」の対義語だということがわかりました。
私は真夜中突然「猜疑心」を感じなければいけない状況に陥り、翌日、自然のヒーリングによって、それが「親愛の情」へと転じたのです。「親愛」、人に対して親しみや愛情を持つ。おそらく自分自身に親しみを感じ、自分自身を愛しなさい、というメッセージなのではないでしょうか。
エゴは私のハートを「信じられないヤツ」と攻撃する。一方ハートは「私は私に親しみを感じているし愛してもいる」と感じている。
この二つの意識の統合。それがきのうの真夜中から半日がかりで行われたようす。
雨の休日。憂鬱な気分にも晴れやかな気分にもなれますね。どちらを選択してもヨシ。私はすっかり自然浴で気分が良くなっちゃってますけど。「親愛」ってもしかしたら自然から私たち人間への共通のメッセージなのかもしれませんね。「あなたたちのこと、大好きだよ。あなたたちもそうでしょ」という。
※ 追記
以下、二つのエッセイでお話したように、かなり「深い」ところの感情の手放しが行われました。
「猜疑心」はその流れだったのかもしれません。
「猜疑心」の対義語は一般的には「信頼」、そして上記でお話したように「親愛」なんだそうです。
どうやら、きのうからきょうにかけて「自己信頼」を取り戻すための重要な作業が行われたみたい。
すべて「あちら」主導。起こるべきことが起きている、ということなんでしょうか。こんな雨の休日なら何日あってもいいな。