海の公園の空高く、巨大な蝶々の凧が舞い踊っていました。
その瞬間、なぜか「胡蝶の夢」というワードが浮かんできて。
家に戻って調べてみると、「胡蝶の夢」とは古代中国の思想書『荘子』にある説話のこと。かなりばくっとした解釈をすると、夢と現実との対立がテーマで、そうは言いながらも、実はどちらも真実なのでいずれをも受け容れ、その時々で満足を感じながら生きればいい、というような内容の話のようです。
光と闇。秩序と混とん。いわゆる陰陽二元論の考え方でどちらもが真実であり、どちらもがすべての一部である、というような包括的な世界観。
その意味するところは、「調和・ハーモニー」あるいは「中立」、「中庸」、「ニュートラル」といったところ。いわゆる「ゼロ・ポイント」もほぼ同じ感覚のようです。
私はかなりの蝶々好きで、ベトナムに旅行に行った時は、手のひらサイズはあるんじゃないかと思える極彩色の蝶々にまとわりつかれながら至福の時を味わっていました。
毎年秋口になってもアゲハ蝶に遭遇する率は高く、特に黒いアゲハ蝶とご縁があるようです。黒いアゲハ蝶は不吉の象徴とする捉え方もあるようですが、私は一度もそういう想いをしたことはありません。どちらかというと私にとっては守り神の要素が強いような気がします。
蝶は変容、死と再生のシンボルであり、同時に人生の彩りと歓びをもたらすものと言われています。そこに「調和・ハーモニー」などが重なってくるんでしょうか。
なかなか心地よいメッセージが感じとれますね。
また「胡蝶の夢」の説話から、蝶々は「夢見鳥」とも名付けられているそうです。
個人的にこの「ゆめみどり」という音にハートが響きました。なるほど、とストンと腑に落ちた感。私の人生には確かに「蝶」との深いつながりがあったのだ、と。だから蝶々を見るとこころ踊るのだと、また一つ何かを想い出した感覚です。
巨大な凧に化けた蝶々の精霊のしわざでしょうか、それにしても気持ちよ~くおさまった感じがします。愛犬・華実とのお散歩はきょうも魅惑の時となりました。
※ 追記 当エッセイの前のエッセイはこちらです。シニアな愛犬、パピーにまちがわれる !
私の手元には『荘子』に関する本が一冊あります。確か去年の秋ごろに買ったもの。数ページペラペラッとめくったものの、私にはむずかしすぎてすぐに挫折してしまった本です。
それでも手放さないのは、いつかきっと「わかる」時がくるだろう、と感じているから。私が「わかる」のを待ちきれなくて凧にメッセージを託したんでしょうか。
目に見えない世界のつながりって、はかりしれないものがありそうですものね。
そうそう、老荘思想と心理学者・ユングの理論はかなり近いところがあります。光だけではなく、闇、影もまた大切な自分なのだ、という理論です。私にとってはユング理論に触れたことは老荘の想いにたどり着く入り口の意味があったのかもしれません。どちらが入り口かは別にして。ユング理論を「オカルト」として一掃してしまうのはもったいない気もします、個人的にそう思うだけですけど。