いゃあ、まさか私がこんなフレーズを書くなんて思いもしませんでした。
『良いも悪いもおかげさま !』
おかげさまは厳密に書くのなら「御蔭様」みたいですけれど。
このフレーズの私自身の解釈は、自分にとって良いと判断できることも悪いとしか判断できないこともすべて「おかげさま」なのだ、というものです。
例えば愛犬・華実は時々トイレ以外のところでうんこちゃんをすることがあります。きょうまさに華実のうんこをみて「華実君のお蔭で私はうんこちゃんをひろうというカルマ(人生の課題)をクリアさせてもらっている」というなんとも晴れ晴れしい気持ちを抱くことができました。実は私には「排泄物」に象徴される何かに対するトラウマがあるようなのです、自分自身ではわからない部分で。
だいたい、晴れ晴れしいって何 ? と思って調べてみると、ちゃんと日本語としてあるんですね、「晴れ晴れしい」という言葉が。
さて、『良いも悪いもおかげさま !』は頭では理解できていましたが、ストンと腑に落ちたのがきょう。元旦に届いた『仏教サイコロジー』(藤田一照/プラユキ・ナラテボー著)という本の中に、「あいつのせいで、はあいつのおかげで」というような小見出しをみつけたからです。元旦に読んだものなので記憶はあいまい、あいまいのまま執筆しています。
あいつのせいで、は被害者意識が生まれます。
あいつのおかげで、は感謝の想いが生まれます。仮に感謝までいかなくても自律性がみえてきます。あいつのおかげでこんなメリットが生まれた、というような。これは自律性ではないかな、ですが被害者意識ではないですよね。どちらかというと恩恵にあずかったという感じ。
これがなんともここちいいのですよ。同じうんこちゃんの始末でも「はいはい、ありがとさん」くらいな気持ちが自然に浮かんでくるのです。
自分の身のまわりに起きていることは、顕在意識的には「良い」ことでも潜在意識的には「悪い」ことかもしれません。逆もしかり。だとするとその基準は完全に自分自身の物差しによって決まっています。自分の物差しが少し狂っていたら、ゆがんでいたら、いつもその判断はゆがんだものになってしまう。そのゆがみはいつか自分の人生にはねかえってくるかもしれません。
だったら、はじめから「良い」「悪い」と識別せず、「みんなおかげさま」でみていくと、新たな世界が見え始めます。
いつまで続くかわかりませんが、私には「かなり」快適な指針になりそうです。
『良いも悪いもおかげさま !』
素敵なフレーズ、一個いただきました。なんだ、こんなことだったのか、と意識の反転、起こりまくり。
素晴らしい本との出逢い、「おかげさまです。ありがとう」。
またまた「おかげさまです」なんて日本語があるんだか。
私は今まで「仏教」は苦手な方でした、お坊さんというのも申し訳ないけど苦手部類。なにかがひっかかっていたのです。それって「仏教」や「お坊さん」に偏見を持っていたからなんだな、と自分を振り返るチャンスにもつながりました。
言葉を運んできてくれる人の「肩書き」や「属性」、またその著者の「肩書き」が同一化している「教義」や「理論」ではなく、その人自身の魂とこころの芯に触れ合えた時に真の「共感」が生まれるのかもしれないですね。それこそが唯一無二の「創造性」につながってくるのかもしれません。
※ 追記 当エッセイの前のエッセイはこちらです。2020年「子年」・ネズミどしだけどどうやらご縁はくじら ?
また別の機会にお話しますが、さらっとご報告。
「スピリチュアル難民、卒業」みたいです。2019年12月4日、私は「スピリチュアル」を手放したら大きなプレゼントが届きました ! 2 というお話をしています。一か月後、さらなるプレゼントが届いたということのようですね。
当エッセイを追っていくとわかるのですが、引き寄せって自然に起きているもののようですよ。自分が望む「未来」を無理やり引っ張ってこようとしなくても。ただ実際のところは人生の課題の違いで、目標設定を明確にした方がより希望が叶いやすいという場合もあるのかもしれませんね。
「引き寄せの法則」についてはさらなる解説が必要かもしれませんが、あえてきょうはやめておきます。引き寄せの文字をみただけでイヤな感情がわく場合、それ、前進のサインです。「なぜ、こんな気持ちになるんだろう」と自分自身に向き合うチャンスの到来。
『良いも悪いもおかげさま !』
いやな感情の裏にも恩恵の種が隠れている。この世の仕組みは案外悪くない。