毎年今頃は死に物狂いで大掃除をしていたのですが、まったく今年は違う、「まっ、いっか」しか浮かんできません。
「年末には大掃除をしなければいけない」との刷り込みがあったんですね、同時に「やらないと大変なことになる」という強迫観念。脅迫観念とも言うみたいですが。
それがまったくないのです。
主人はきょうも飲み会で、いつもなら「なぜ私だけが大掃除をしているの ?」とキリキリしまくっているのですが、「まっ、いっか」で今も当エッセイを執筆しています。
昼間は、人気のない海辺の公園で主人と海の向こうをぼぉ~っと眺めて、「いい景色だね、気持ちいいね」と、とても年の瀬とは思えないほどのゆったりとした時間を味わいました。
多分私は小さい時から時間に追われる感覚が半端なくて、そのせいなのか、仕事も締め切りに追われるものばかりを選んできました。時間との闘い ? 闘わなくていいのに闘ってきたみたい、いつもいつも焦燥感にあふれていました。
私は気が短いところがある割に、自分自身ではトロい行動も多く、その真意は、トロい自分を受け容れられなくて、いつも「もっと早くしなければ、もっともっと」と自分で自分のお尻をひっぱたいていたみたい。その結果、いつもいつも仕事の締め切りに苦しんできた。
数年前までは年末年始も仕事に追われて、大掃除はしなくちゃいけない、仕事は年明けに提出しなければいけない、で心休まる時間はありませんでした。自分で自分を追い込んでいたんだ。
私たちは小さい頃に親からされたこと、親から言われたことがこころの真ん中に残っていて、無意識のうちにその時の状況を繰り返している、という考え方があります。
私の場合、小さい頃とりたてて急き立てられた記憶はないのですが、その記憶自体封印してしまおうとしていたのか、自分の生き方を振り返ってみると、相当プレッシャーを感じて育ったんだな、ということがようやくみえはじめて来ました。
そんな自分に向き合い、徹底的に自分を受け容れようとしたこの五年間、そして特にここ一年くらいは自分を大切にしよう、自分を愛そう、自分を労わろう、自分を認めようとしてきたお蔭なのか、やっと必要以上に時間を気にすることはないし、人がやっているからって自分もやらなくてはいけないわけではない、自分は自分のペースで自分の人生を楽しめばいいんだ、とそんなことを思えるようになりました。
一生馬車馬のように働き続けなければいけない、と思っていた自分は仮の姿でした。
きょうは玄関のお飾りを買ってきて、それもリースタイプのお飾り、自分の「大好き」を優先しました。一夜飾りがいけないとかお飾りをしてはいけない日があるとか、その手の縁起かつぎもまったく気にならず、玄関掃除をしてお飾りをつけ、思った以上にかわいいので大満足です。
この後自分のペースで断捨離をしようかな、それとも本を読もうかな。ま、明日もあるし。お掃除は普通程度にできていればいいし。そうそう、先ほど、来年2月の旅行も決めてしまいました。いつもいつも仕事を最優先で考えてきた私が、です。
自分を大切にするとちゃんと自分がみえてくる。
今まで自分自身をスルーして過ごしてきた分、自分との対話を大切にしよう、とあらためて来年の抱負がうかびあがってきました。
あなたはちゃんと自分を大切にしていますか。まわりへの奉仕に追われていませんか。まず「自分」。このことを実践したからと言って自分自身をジャッジする必要はありません。私たちは自分自身を生きるために、この世に生を授かっているのですから。
※ 追記 当エッセイの前のエッセイはこちらです。ベランダの花君、ヒヨドリのお腹の中に !
締め切りに追われる自分という意識の牢獄。そう、すべては自分が決めていました。締め切りはあって当然ですが、まにあわいそうもなかったら「のばす」という交渉をすればいいのです。そこで自分さえ我慢すればと「いいコになろう」とするから自分を苦しめるんです。自分を苦しめてきたのは他ならない私自身でした。
今年はこういう意識の大掃除がいっぱいできました。だからリアルな大掃除に執着していないのかもしれませんね。
執着といえばお釈迦様の教えが私たちの身体にはしみこんでいますが、一般に言われているもの、だいぶ「誤解」があるみたいですよ。信頼は大切だけれど、なんでもウノミにするのはちょっと違うのかもしれません。
こころの解放、まだまだ続いています。