ヒヨドリの来訪です。
大変、大変、ベランダの花君、一気食い。
毎年そうなのですが、冬・春のお花は年内にヒヨドリに食べられてしまいます。
きょうはストックにかぶりつき、あっという間にストックは茎と葉っぱだけ。
今年は遅いな~、と思っていたら、年の瀬も押し詰まったきょう「12月30日」にやってきてくれました。
ヒヨドリの来訪は三年くらい前から。
最初の年は「せっかく育てているお花なのに」と思ったのですが、その翌春、ヒヨドリ君が食べたお花が満開になって咲いているのをみて、「もしかしてヒヨドリの恩返し ? 」と勝手に都合の良い解釈をしてその様子を楽しむようになりました。
「一気食い、あれ、華実君( 愛犬 )じゃないの ?」
こんなに食いしん坊なヒヨドリはみたことがありません。
なんでもヒヨドリは甘いものが大好きなんだとか。お花の蜜に目がないらしいですよ。
なるほど。私も甘いもの大好き。でも潜在意識はそれを「いけないこと」として甘いもの好きを抑圧しているのではないでしょうか。ヒヨドリ君はそれを私に教えてくれたのかもしれません。「いいんだよ、甘いもの大好きでも。好きなものは好きって言っていいんだよ~」
さらに。ヒヨドリは食欲旺盛すぎて人から嫌われる側面もあるんだとか。
まさに ! きっと私は甘いものだけではなく、「食べること」をいけないこととして自分を責めているのかもしれません。「いいんだよ、食べたい時にはちゃんと食べていいんだよ。食べたいものを食べていいんだよ~」
勝手な「妄想」でも自分では割と腑に落ちているので、これはこれで結構「アリ」の事実なのかもしれませんね。
ベランダに鳥が来てくれるのは「吉祥」のサインらしいですよ。それに鳥君の鳴き声って一瞬にして私たちの波動調整をしてくれるんですよね。きょうは二羽のヒヨドリがペアでやってきてくれました。
ベランダは小さな自然園。そこに来てくれる生き物は私たちの仲間。お花も彼らの来訪を楽しみにしているのかもしれませんよね。たとえ、私たちの目には「鳥君に食べられてる花たち」というように見えたとしても。彼らの中には、「食べてくれてありがとう」の想いがあるんじゃないでしょうか。
平和な花園、ちっちゃくてもそこに流れるエネルギーは壮大です。小宇宙です。
※ 追記 当エッセイの前のエッセイはこちらです。『私は冷たくて利己的な女』
前エッセイで仏教と心理学の相互交流によるスピリチュアルな心理学のお話をしているんですが、この中で紹介している『自己牢獄を超えて―仏教心理学入門 』キャロライン・ブレイジャー (著)の後、素晴らしい本が私の元にやってきてくれました。
『自己牢獄を超えて』は専門書としては素晴らしいものなのですが、大乗仏教理論なので、私にはちょっとキツイところもあって。というか、さらなる疑問が生まれ、それがあったからなのか今度は原始仏教系理論の本があらわれたのです。
今まで「仏教」というものに感じていた微妙な「違和感」の謎がすべて解けました。こうやって必要なものがどんどんあちらからやってきてくれるこの状況、嬉しくてたまりません。
ということはヒヨドリ君の来訪も私にとって必要なことなんだろうな、と思えるので、花を食べられることも結果的に必要なこと。ということは私がガーデニングをしているのも私にとって必要なこと。なんでしょうね。