愛の使命。
愛の使命ってなんでしょう。多分、人生において愛の学びをたくさんする、という課題を自分自身に設定してこの世に生まれてきた人のこと、あるいはその命そのもの。
私は誕生日からみる数秘が「33」、その意味は「愛の奉仕人」なんだとか。実はこれが曲者で、「私は愛の人でいなければならない」とずっと自分自身にプレッシャーをかけてきました。
誕生数秘は誰にでも該当する概念なのですが、その中で一番強烈な数字が「33」。「33」の人間が考えることはたいていの人が理解できないんだとか。ふむふむ。
途中で「どうも愛の奉仕人の解釈をまちがえていたんじゃないか」ということに気づき、「愛そのものであることを想い出すこと」とか、あるいは「自分自身に愛を奉仕すること」とか個人的な解釈をして、何とかプレッシャーを切り抜けてきました。
そして、ついにやってきたのは、「愛の使命が大きいということはエゴや執着心も半端ない、ということではないか」という概念です。
おぉ、自分自身で大感激。なるほど、と腑に落ちました。
私たちは愛の学びをするためにその裏側ともいえるエゴや執着心を兼ね備えています。自分自身のエゴや執着心に向き合うことではじめて愛のなんたるかが見えてくる。愛の使命が大きい人は当然エゴや執着心も強いのだ、というパラドックスです。逆にいうと、エゴや執着心があるからこそ、愛、がわかるのであって、愛だけだったらそれが愛と気づくこともなければ愛の学びも成立しないということです。
私は自分自身がエゴが強くて執着心が強いタイプだとは思いませんでした。が、上記のように捉えるとすべてつじつまが合うんです。
私の人生は決して順風満帆などではなく、大きな波風が立って、それを一つ一つクリアしながらここにたどり着きました。それでもまだ完全に凪ぎ状態だとも思えず、きっとまたこれからも波風が立つんだろうと感じています。
それは私の性格が悪いから ? とも感じましたが、どうもそれもしっくりこない。性格が悪いところもあるけれど良いところもあるはずだから。
とすると「愛の学びが大きい分エゴや執着心という負の財産も大きいのでは」という考え方が妙にしっくりくるのです。
エゴや執着心はいけないものではないけれど、一般的には「エゴに牛耳られないように」とか「執着心を手放しなさい」とか言われることが少なくありません。それを「絶対いけないこと」ととらえれば自分自身のエゴや執着心を抑圧します。その一方で「私は愛の人でいなければならない」という幻想も膨らみまくります。
どちらもホドホド、バランスが取れていればいいのですが、つい「愛」にフォーカスしがちな私たちは自分自身のエゴや執着心の強さを「いけないこと」と受け止め自分自身の中に抑圧しているのではないでしょうか。
「私は愛の使命が大きい分エゴや執着心も強い」
この事実を受け容れたら、ものすごくこころが軽くなりました。私の性格がとりたてて悪いわけではなく、元々備わった特性が愛もエゴも執着も半端ない、というものだったんだ、という驚きの真実に気がついたからです。
どうも自分の人生はハードだ。
どうも生きづらくて仕方ない。
まじめに生きているのになぜかつらいことばかり起こる。
もしもこんな人生を歩んでいるとしたら、それはあなたの愛の使命が大きいからなのかもしれませんね。その分、裏側のエネルギーである「エゴも執着心も大きい」のです。愛もエゴも執着心も同価値です。エゴや執着心を毛嫌いしないで一つ一つ大切に思いながら自分自身の中に統合してみてはいかがでしょう ?
私はこの作業を5年間続けてきました。そのお蔭でやっとこのことに気づくことができました。
大変だったぁ。でもよくがんばったね、と自分自身を労おうとも思っています。仕方ない、自分自身が選んだ人生なんだから思い切りそれを享受するしかないですよね。
「私は愛の使命が大きい分エゴや執着心も強い」、この真実を受け容れられたので、今後は少しは軽くなると思いますけど。やっぱり「33」の考えることはちょっと変 ?
ちなみに誕生数秘における「愛の奉仕人」という言葉の解釈はおそらくキリスト教圏のものなので、私たち日本人には少し異なる解釈があるのではないかと感じています。
※ 追記 当エッセイの前のエッセイはこちらです。犬猫ちゃん、ペット君の友として生きる