そうきましたか。
私は不寛容なんだそうです、まるで気づいていなかったけれど。
朝霧とひかりのカーテンでお話しているように、昨日私は最悪の気分まで落ち込んでいました。頭、特に左脳側が痛くて、気分そのものもドヨ~ンとして大好きなパワー・ヨガのレッスンにも行けなかったほど。
今朝、目が覚めたらマブタがはれてる、左側はものもらい感覚。実際にはできていないんですけどゴロゴロ感があります。多分きのうの左脳の痛みと関係しています。
ものもらい、まぶたのトラブルのメッセージを調べてみると、私は目の前のものが受け容れられなくて不寛容になっている状態。いい加減誰か、自分を含めて、コントロールしようとするのはやめなさい、というものが出てきました(『自分を愛して !』リズ・ブルボー著)。
なるほど、そうだったんだ。私はきのうある人物とその人が提唱するメソッドに対してかなりの違和感を感じていました。その違和感の正体は私自身の不寛容さからきていたということです。
自分で言うのもなんですが、私は比較的優しい方だと思っていたんですね、自分のコトを。でもじっくり考えてみると、妙なところで完璧主義だったり正義感が強かったり、がんこなところもあったりするので、確かに不寛容なところもあるんだ、とはじめて気づいたんです。
不寛容さって実は誰にでもあるもの。そして不寛容さは寛容さと表裏一体。ということは。不寛容な私は寛容へののびしろが大きいということ。
そもそも不寛容さがあるのなら、誰かを責める瞬間があったとしても当然であるということ。そのこと自体で自分を必要以上に責めることはしなくてよいということ。
「あ、今の私は不寛容なんだ」と受け容れればいいということです。
「ダメダメ、不寛容なんて。早く寛容にならなきゃ」と思うことこそ不寛容ですよね。
まぶたのはれがこのメッセージを教えてくれました。ということは不寛容さをいつまでも握りしめている必要もないし、その一方で不寛容さを毛嫌いする必要もないよ、という応援のメッセージが届いたということではないでしょうか。
そういえば、と今思いついたんですけど、私たちって欧米人と比べるとマブタがはれっぽいじゃないですか。骨格の違いだと思うけど、案外自分の「不寛容」を抑圧している、なんてこともあるのかもしれないな、と。
「不寛容さ」は誰にでも備わっている感情です。とりたてて悪いものではありません。もしもご自分の「不寛容」を責めているとしたら、今その想いを解放してあげてみてはいかがでしょう ?
まじめな人、一生懸命な人ほど、実は「不寛容」な自分を責めていたりするかもしれませんよ。
このことに気づいただけで気分爽快 ! きのう一日のドンヨリ気分はこのことの解放のためだったんだと密かに「Lucky♪」かみしめています。