本日の解放、手放しシリーズ第二弾。
実は今朝「スピリチュアル」を手放しました。
私はここ十数年、結構なスピどっぷり。ただ、ここ二年くらいどうしても何かがひっかかっていました。
さらにここ三か月くらい、あるスピ系ティーチャーのブログによくお邪魔していたのです。
その人の書くことは「ウンウン」とうなづけることが多く、いよいよこれが答えなのか、と感じてその人の著書も読んでみました。「ウンウン、よくわかる」。
そう思っていたのですが途中からまたも違和感が。その理由がどうしてもわかりません。
その人の動画を観てわかりました、声によどみがある。そう、その人自身何らかの「不安」「疑問」を抱えて活動をしているらしいことがわかったのです。もちろん人間ですから「不安」「疑問」なんてあってあたりまえ。おそらくその人はその「あってあたりまえ」のところをいけないと感じて抑圧している様子。
そしてついに今朝答えがわかったのです。
いわゆるスピ系のリーダー、ティーチャーの人は高い確率で「認めてほしい人」他者に自分を。同じ傾向の人がその人の元に集まります。これももちろん「いけない」ことではなくて誰にでもある傾向。ただし、それをお互いに認識しあっていない様子。だからそこには「認めて欲しい私」のエネルギーが渦巻いています。
そしてそれは私自身のエネルギーもそうだった、ということに気づいたのです。
私も誰かに認めて欲しくて、みんなに認めて欲しくてさまざまな活動をしていた。
けれどここ数か月、徹底的に「自己愛」を追求しているうちに自分で自分を認めることが一番のパワーになることに気づきました。
仮に誰一人私を認めてくれなかったとしても自分自身が自分を認めていれば必ず「承認」のわは拡がります。「承認」もまた「愛」と同じように自分の中から自然にあふれ出る、にじみ出るものなのだ、とそんなことを感じたのです。
それと私たちは生きているだけで霊性進化をする生き物なので、取り立てて「霊性を磨こう」「波動を上げよう」と思う必要はないということ。
自分自身を生きるだけで自動的に霊性は磨かれる。それが私の感じる「スピリチュアリティ」の本質。
「スピリチュアル」には今までずいぶんとお世話になり、楽しい仲間もたくさんできたし、それ自体がムダだったとは思いません。ものすごく有意義な時間を過ごしてきたと思います。ただ「スピリチュアルをする私」はもう意識しなくていいなと感じ、スピリチュアルとさようならをすることにしました。
だからと言って私の中から目に視えない世界が消えるわけではありません。繰り返しになりますけど「スピリチュアルをする私」というところへのフォーカスがなくなるということです。もしスピなことを体験していたとしても意識的ではなく、無意識にそれが「出た」という感じ。
この感覚が今朝、です。
そして今、15時15分、「宇宙につながるチップである松果体にスイッチが入った」というメッセージを認識させられるような記事に導かれました。
バクっと言うと、私たちの第三の目と呼ばれるところは=脳内の「松果体」のことで、これは宇宙とつながるチップだ、ということらしいのです。
これだけ見ても十分にスピリチュアルですよね。ただ、宇宙につながるチップがスピリチュアルであるかどうかは別の話。おそらく科学者の中でもこうした説を唱えている人がいるのではないでしょうか。ちなみに第三の目とはヨーガの概念でいうところの第6チャクラ、眉間と額の間ぐらいのところを指します。ヨーガの修行者などは第三の目の開眼を目指して修行に励む場合もあるんだとか。
私の場合、額の真ん中に縦型の大きな三日月が浮き上がっています。去年くらいから肌がこんもり盛り上がっているのです。さらに最近眉間の真ん中に横型の目が浮き立ってきて、これも皮膚がこんもりと盛り上がっている感じ。
第三の目は開きつつあるんだろうと感じていましたが確信は持てず。きょう、「やっぱり」ということがストンと腑に落ちました。それが宇宙とつながるチップだとは知らなかったので大感激。
私は外にメンターやマスターは必要ない、と感じていました。私に必要なものはすべて内にある、という感覚を感じ取っていたからです。これが「確信」と変わったこと。それが「スピリチュアル」を手放したことによって届いた大きなプレゼントの正体です。
この話はある程度スピ系の情報を知らないとハートには響かないと思います。だからと言って「スピ・ピープル」の方がそれに興味がない人より「上」という意味ではありません。もちろん「下」という意味でもありません。たまたま人生の課題として「スピ」につながるかそうでないか、その違いによって理解も解釈も変わる、ただそれだけです。
祝 ! 自己破壊性の解放 でお話しましたけど、先月私は昭和、平成のお荷物 手放しました !というエッセイを執筆しています。その後ホリスティック・ケアの看板を外しました というお話もしています。
私の人生の道は完全に軌道修正されたようです。当然つながってくださる方のタイプ、傾向も変わるはず。これは「別離」であっても前進の一歩だということ。哀しくて辛い想いがそこにあったとしても、それ以上の歓びがそこに渦巻いているということ。
哀しくて辛い想いを選択するか、前進の一歩の歓びを選択するか、その違いで人生が変わりますね。その選択は私たちの自由だ、ということではないでしょうか。どちらを選んでも大丈夫。
さて、私はホリスティック・ケアの看板を外し、スピリチュアルという大切なツールも手放しました。だからと言って今までの蓄積情報がゼロになるということではありません。今までの情報は情報として適切な場所での適切な活用の仕方はさせてもらいます。ただし、それが柱というスタンスではなくなります。たくさんある引き出しのうちの一つという感覚ですね。何より大切なのは「直感」「直観」。自分自身の感覚、ということでしょうから。
ありがたいことにこの年になって突然私の人生の幅は拡がりました。このタイミングでたくさんの新しいお仲間があらわれる、そのことを感じます。
※ 追記
おまけ、として記します。第三の目はホルスの目とも関係あるそうです。それを陰謀説とつなげる考え方があります。陰謀説ととらえればお話はそこで終わってしまう。その先の「ひかり」をみるか、陰謀説の「闇」をみるか。その選択も自由。だから私も自由に選択しました。その選択の責任は自分自身にあると認識して。
自分を愛するとは自分の責任をすべて自分自身でとる、ということみたいですよ。なかなかむずかしいけれどただ今トライ中。