マンションに住んでいる「おそらく」ノラちゃん、黒猫ちゃんに遭遇しました。
いつもは私の姿をみるとさっと逃げる素振りを見せるのですが、きょうはしっかりと真正面を見据えて、まるで「よく来たね」というように漆黒の被毛を太陽に輝かせながら私をみつめていたのです。
よくみると右目がない、片目。確かしっぽも短かったような。小さいときに事故にあったのか、猫ちゃん同士の争いで目を失ったのか、あるいは病気 ? さまざまなことが考えられますが、いつもその面構えをみて、愛猫・海・うみとはまるで違う生き物のようだと感じていました。
相当タフな猫生を選んでいます。ただ、ノラちゃんとは言いながらごはんを食べに行くお家はあるようです。
なんだろう、あのコのメッセージは ?
思いついたのは魔女狩り、黒猫の虐待、黒魔術。
なんとなく黒魔術が引っかかったので調べてみたらこんな記述がみつかりました。
中身を読んだわけではないのですが、まず「身体の黒魔術」。実はどうも私は黒魔術をかけられていたのでは、と思う節があり、妙に納得してしまったのです。黒魔術をかけられたという表現はオカルト・チックですが、実際に呪術というものはそんなに珍しいものではないらしんですよね。
前エッセイ次なるデトックスの波 !? でお話しているんですけど、私はきのうから心臓、ハート、ハイハート・チャクラに激痛レベルでのエネルギーを感じていました。そういえば以前ある人からメールをもらった時に、心臓に激痛を感じたのです、瞬間的に。あまりにも痛くて苦しくてその時は一瞬息が止まるほどでした。
「もしかしてあの時 ?」、断定はできないのですがその後の状況を考えると、なるほどツジツマは合うんです。
ただしこれは解かれました。なぜそう感じたのかというと、当エッセイを記しながらものすごいセキが出たためです。セキは私の場合、感情とかなり関係があり、いつもは逃げる黒猫ちゃんがあまりにも堂々としてしかも友好的な表情をしていたので、おそらく私に「良い知らせがあるよ」ということなのだと感じたということもあって。何よりきのうのハート周辺の激痛レベルでのエネルギー移動の事実。
そして「言葉の白魔術」。これにはびっくり。なんでもこの本の「はじめに」の文章に『「書くこと」はそれ自体が「生きること」であるということ。つまり特殊な発話行為の実践を通して世界と自分自身をより善きものへと作り替えようとする試みだということである』(本書より引用)と書かれているんだとか。
実際黒魔術と白魔術をわけて考えることには意味がないとの説もあるんですが、ここでは本書の分類にならうとして、つまり、私の行っていることはそれ自体が「生きること」だと捉えている人がいるということにかなりの驚き、衝撃を感じました。良い意味で。
だとするとあの猫ちゃんの友好的な表情にも納得がいきます。
今までみたことのないほどの被毛の輝き。「美しい」の言葉以外に何も見つからないほど光を湛えていたのです。まさにビロードのようでした。
もし、これが本当だったらすごいメッセージをもらっちゃったな、と。私の妄想だとしても誰に迷惑がかかるわけでもないですしね。
そしてこれらはすべて私の魂の選択の結果だということ。仮に黒魔術をかけられたとして、それは私の魂レベルでの課題だったということです。
ちなみに黒い色のマイナス面での捉え方として「犠牲」という考え方もあるんだとか。あとは「闇」。
それが解けたわけですから、「犠牲」も「闇」も統合して「光」に転じることができたということになるのかもしれません。あの猫ちゃんの被毛の輝きは「闇」の中に息づく霊妙な「光」の象徴なのではないでしょうか。
それにしても私は書くことで生きていたんだ、生かされていんだ、と思うと、感慨深いものがあって。
以前から私は「書くこと」を当エッセイでおすすめしています。それが自己受容、自己統合、自己表現につながるよ、と。それらがすなわち「生きること」だったなんて。
自然は私たちに必ず何かを伝えてくれています。寄せ植えに託されたメッセージでもそうでした。自然とつながる。自然を感じる。自然と向き合う。
ほんのちょっと呼吸を合わせるだけで、彼らはとてつもないGiftを贈り届けてくれるんです。
人生の拡がり、まだまだ可能性は無限大ですね。