怒れました、思いっきり。
怒れました、という日本語が正しいのかどうかはおいといて。
私は怒れない、とにかく怒れない。怒りの感情があっても「怒ることはいけないこと」の刷り込みが強くて。最近やっと「怒ることは悪いことではない」という意識が膨らんできて、主人に対してだけは怒れるようになりました。
他の人に対しては「カチン」と来ても「まっ、いっか」とやり過ごす癖はまだ抜けていません。
ところがきのう。
怒れたのですよ、メールで、ですけど。
どうも相手のスタンスが気に入らない、いつもなら我慢するけどちゃんと言わないと通じないこともある。
思い切って「怒り」のメールを送りました。言葉の暴力ではないです、ただ「あなたの言うことに納得できない。なぜなら私はこう考えているから。あなたは私の意図をしっかり理解してくれていますか。お互いに誤解がありませんか。今後の二人のためにコンセンサスを取りませんか」という趣旨をふまえ、それなりの文章にして送りました。
送信後も結構むかついていました。その足で愛犬・華実とのお散歩に出ました。
そういえば、と相手に対する「むかつき」が次から次に浮かんできて、「あぁ、私はあの人に対する怒りをこんなにも抑圧していたんだ。今、出てきたことはすごくいいことなんだ」と思ったのです。
わかります ?
普段の私は怒ると「あぁ、怒っちゃった」と自分を責めていたのです。
きのうの私は「怒りがたまっていたから出てきた」とその事実をジャッジすることなく受け容れることができていたのです。
この差、これが大きかったみたい。前者は自己否定、後者は自己肯定&自己受容につながるためです。
そのうちこんな感情まで出てきました、「この怒りはあの人の何らかの昇華にも役立つはずだ」と。そう、その人は私が怒っていることなど感じないまま今まで私とお付き合いしていたわけです、私はその時々で結構怒っていたという事実を「見ないふり」していたわけですから。けれど「あなたそれ変だよ」としっかり伝えていけば、相手の人も「あ、何かがずれていたんだな」と気づくキッカケになるかもしれません。
もし気づかなくてもそれは相手の自由。「私は今、これを伝える時だったんだ」「相手はこれを伝えるチャンスを与えてくれたんだ」「もしかしたらあの人だって私に怒っていたかもしれない」「あの人と私は怒りという課題のパートナーなんだ」
どんどん自己受容が進み、最後は感謝の思いまで出てきました。ヨガの先生とのエネルギー交換 でお話したように「おたがいさま」「イーブン」の関係なんだ、ということが私の中でストンと腑に落ちたのです。
そのお蔭なのかその後私の気分はかなり爽快で明らかに大きな「昇華」による「浄化、ヒーリング」が起きていることが実感できました。
「怒りは悪いもの」ではなく、「怒りもまたGift」だということがわかったのです。
お相手が私と同じように感じてくれたかどうかはわかりません。ただ私は波動が一気に軽くなってしまったことを実感しました。お相手の存在があったからこそ。
「怒り」のエネルギーは波動で言うと「重い」もの。「重い」= いけない、ではありません。「重い」からそれを昇華したら一気にグンと軽くなってしまう。「怒り」のエネルギーは何らかのモチベーションにつながるとも言われています。私たちは強い怒りを感じた時に、「何クソ~」と新たな何かを始めるスイッチを入れることができるんです。
むやみやたらに怒って相手を傷つけようとする、ということではなく、前進のためのまっとうな怒りだな、と感じた時は適正な言葉、方法で怒りを表現すれば罪悪感は生まれません。そもそも日本人は「怒りはいけないもの」という強い固定観念がありますから、まずそこを外す。そして相手とはいつも「お互いさま」、対等の関係だというスタンスを築く。
たったこれだけのことなのに今までかかっちゃいました。が、今までちゃんと生きてきたから、やっと今このことがわかりました。
私はこの後、ちゃんと怒れる人になるでしょう。「怒り」という感情にも親愛の情を持てるようになりました。
日本人は怒りを抑圧するのが一番得意な人たちだ、とどこかの本に書いてありましたが、そんなのウソッパチだ、少なくとも私の中では。
日本人にうつ病やガン、アレルギーが多いことの理由の一つは「怒りはいけないもの」という固定観念の強い刷り込みがあるからなのではないでしょうか。感情や意識に「良い」「悪い」はないのです、すべて必要なものなのですから。そして、もちろん病気にも意味があるのです。病気=いけない、ではないですよね。私はそう捉えていますけどあなたはいかがですか ?
当エッセイの前のエッセイはこちらです。ひまわりの花 みぃつけた !