愛犬・華実とのお散歩、たぶんノラさんの「みゃ~ちゃん」に遭遇しました。
みゃ~ちゃんは数か月前から川の堤防のところに姿をみせ始めました。ミケちゃんです。
この辺はマンション群のため、基本猫さんは室内生活メインです。川をはさんで一戸建てエリアがあり、ここではどうやら地域猫さんがいるようです。
みゃ~ちゃんはその中の一匹。けれどはぐれ猫さんのように一匹で川の反対側に出没しています。
性格は、というと決して人なっこい方ではありません。私の場合、華実を連れていることがほとんどなので華実も反応しません。華実は基本誰でも大好きっコなのでみゃ~ちゃんが線を引いている様子です。
みゃ~ちゃんは台風の後や大雨の後になると姿をくらますので、どこか別のところに生活の拠点があるのかもしれません。
川の堤防のところにはみゃ~ちゃん用にお水とごはんが用意されています。が、そこに数日前ペットボトルの水が登場しました、1本、2本と増えていきます。もしかしたら猫除け ?
はじめの頃はみゃ~ちゃんはいつも同じ場所にいたのですが、最近は微妙に居場所が変わります。
先日、男性が長時間みゃ~ちゃんの写真を撮りまくっていて、みゃ~ちゃんは迷惑そうにしていました。その後パッタリ姿が見えなくなったので、もういやになったのかな、と感じていたら、きょう、偶然遭遇することができました。
みゃ~ちゃんと呼ぶといつもお返事をしてくれます。逃げることはありません。きょうは4回くらい答えてくれました。そして私がその場を立ち去り、ふと後ろを振り返ったら、みゃ~ちゃんが私の方をみてくれているではありませんか。今までそんな素振りは一回もみせてくれなかったのに。
「わかってくれてありがとう」、みゃ~ちゃんのそんな想いが伝わってきました。
ノラさんを見かけると大事に思ってお世話をする人がいます。一方、そういう行為をおもしろくなく思う人もいるのが現実です。みんながみんな猫好きさんとは限らない、動物好きとは限らない。動物好きな人は、動物好きでない人を時に見下したりする場合もありませんか。
どちらも人間の価値としては同じ、なんです、みんなそれぞれ、人生の課題が異なるだけ。課題が異なるから、ちょっとしたことでも対立のエネルギーが生まれます。
みゃ~ちゃんはお世話をしてくれるのは嬉しいけれど、それが過剰になって、そこに動物嫌いの人との対立が生じることが哀しかったのではないでしょうか。
自分はただ在る、生きているだけでそこに良いも悪いもないのに、人間たちはそれに「良い」「悪い」の意味付けをしてしまっている。「良い」「悪い」じゃなく、お互いにお互いを大切に思って尊重してほしいにゃ。
いつもは不愛想なみゃ~ちゃんが私に何回も鳴き声で応えてくれたことの陰にはみゃ~ちゃんなりのそんな想いが託されていたようです。
猫好きさんにとって猫は神さまにも相当するもの、自分は猫さんのしもべと感じる人も少なくありません。
けれどそう感じない人がいる、という現実は忘れないようにしたいもの。私自身も含めて。
みゃ~ちゃんのような立場の猫さんが自由にのびのびと暮らせるようになるためには、私たち人間側の自分自身とのHarmonyということがすごく大切なんだな、と感じました。
ちなみに「みゃ~ちゃん」は私が勝手に名付けた名前。みゃ~ちゃんの平穏な生活を少し距離を置いて見守るのが私のスタンスであり、魂の課題のようです。
少しはホッとしてくれたかな、みゃ~ちゃん。私はみゃ~ちゃんは川の守り神としてあそこにいるような気がしてなりません。「神様」との距離感は近すぎても遠すぎてもアンバランスが生じます。ホドホド、なんでもよい塩梅。
※ 追記
よろしかったらこちらもご覧ください。犬猫ちゃんの胸を借りて生きる
当エッセイの前のエッセイはこちらです。11月の花模様