たった今、ストンと腑に落ちました、もしかしたら以前もこのテーマについてお話しているかもしれませんけれど。
例えば、いゃあな気持ちにさせられる相手。そのいゃあな気持ちは自分自身の中に抑圧してきた感情が反応しているだけ。
例えば迷惑メール。まったく何回もスパムを送ってきてハラたつなぁ。それってスパムをいけないことって思っているから。迷惑をかけることをいけないと思っているから。自分が人に迷惑をかけっぱなしでいけないと罪悪感を感じているから。だったら、時に人に迷惑をかける自分を受け容れてしまえばいい、「あ、今、私は迷惑をかけている」って。良い、悪いの判断は必要なく、ただそう感じる。すると次から迷惑メールがあまり気にならなくなります。迷惑という概念を追い出そうとするこころの働きが弱まるから。
ほら、迷惑、という概念にもちゃんと価値があるんです。
こうやって考えていくと、私の周りにあるもの、いるものすべて私の味方だった、と気づきます。一見攻撃態勢の相手でさえ。「攻撃はいけない」と自分の攻撃パワーを抑圧している場合に、「まったく ! 攻撃ばかりしてきて」と感じるわけなんです。
「あぁ、私の中の攻撃ちゃんが反応しているんだ」と気づくだけで十分。
なぜこのことに気づいたかというと、ここ数日「あるがまま」と言っている一方で自分と異なる意見の人を批判している人たちが目に飛び込んできていたから。「そっか、私はそもそも批判をいけないことなんだと思っていたんだ。自分の中の批判ちゃんを責めていたんだ」「批判ちゃんにだって役割はあるんだから、すべての批判がいけないと思いすぎることはないな」「あまりにも批判ちゃんが暴れている時はきっと不安がいっぱいになっているんだからその時はそれを認めればいいんだ」と。
そうしたらさらに気づいたんです、人というのは多分死ぬ瞬間まで、100%自分自身を受け容れることなんてできない生き物なんだな、と。そう、最期までエゴと共にあるんだな、と。たとえ覚醒や目覚め体験をしたとしても。
それが人間である自分を生きるということ。
私たちは仏教の教えの影響で、仏として生きる方法を潜在意識に内蔵しています。ヨーガの教えの影響で覚者として生きる方法を潜在意識に内蔵している人もいるでしょう。他にもさまざまな宗教や思想の影響で、それぞれが自分とは異なる何かとして存在することを潜在意識に組み込まれています。
そのエッセンスはエッセンスとして大事に使わせてもらって、けれど人間としての「エゴ」とも仲良くしながら生きていけばいいんじゃないでしょうか。
「エゴ」はなくなりません、どんなことをしたって。そもそも「エゴ」はなくさなければいけないものではなくて上手に協調し合いながら生きていく人生のパートナーです。肉体がある、ということはエゴとワンセットという意味です。「私は」と言ってる時点でそれは「エゴ」だから。
何かの、誰かの大切な教えが伝言ゲームをしているうちに「尾ひれはひれ」がついちゃって原型を保てなくなってしまっている、ということがあるような気がします。
みぃんな自分のハートと脳をシンプルにして、誰々がこういってるから、何の書物にこう書いてあるから、という要素を最優先項目で考える必要はないんじゃないか、と、それが「今」の私の気持ちです。なぜならそれらはすべて過去の情報だから。過去がいけないという意味ではなく、けれど過去は過去、今ではない、というお話です。そして過去もすべて「ゼロ」にする、という意味ではありません。過去との関係を見直して、必要のないものとはさようなら、をするという意味です。過去をぎゅっと握りしめ続けると苦しくなるから。
みぃんなが味方。例えば病気はやっつけるべき敵ではない、という考え方はずいぶん浸透してきましたよね。それでも病気をやっつけよう、病気と闘おうとする人たちだってたくさんいます。どっちだっていいじゃん、私は病気は人生の大切なパートナーと思っているから。そもそもなぜ病気になるのか、というところの考え方からして異なる説があるんだから、なかなか一つになんかまとまるはずはないんです。だったら「自分はこっちの方が気持ちいいのでこちらで進みます。あなたはあなたの道で進むんですね。お互い、お互いを尊重していきましょう。必要な時は手を組みましょうね」で十分だ、と。考えが異なるということで事あるごとに「カチン、カチン」とくる必要はない。もちろん「カチン、カチン」にも意味があるので、「カチン、カチン」が多発する時は、自分が怒りを抑圧している時なんだなと受け容れればいいのです。
私は怒りの抑圧量が半端ない、つまり怒りはいけないものだとして表現してこなかったタイプなので「カチン、カチン」頻度が高かったんですが、ここのところ、信じられないくらい「カチン、カチン」頻度は減ってきてくれています。
ちゃんと自分に向き合った証拠。それをハートがちゃんと私に教えてくれているようです。
いかがですか、意識が先、現象が後。本当にその通りになっていませんか。
「みぃんな味方」と想えばそういう現実が押し寄せてくる。
※ 追記
自己肯定の力って「包容力」なんだな、と。=「受容力」。これ、女性性の働きによるものなんですよ。男性で高い自己肯定力が備わっている人は、女性性と男性性のバランスが取れているということです。女性でも自己肯定力が今一つの場合は、女性性と男性性のバランスも今一つ、ということです。
女性性って何かしら、男性性って何かしら。そんなところを自分自身で見つめ直していくと、結果自己肯定が高まり、柔らかな包容力の備わった、より素敵な女性になれるかもしれませんよね。
女性性の魅力って、いわゆる「女子力」とか「美魔女的ニュアンス」だけとはちょっと違うような気がするんですけど、いかがでしょう。
ベランダに百合の花を飾ったら視えてきたこと を執筆したお蔭でここにたどり着けたみたい。百合の花の精霊ちゃん、ありがとう。