きょうは月末だったんですね、道理で身体がシンドイと思いました。この手の話は流し気味に聞いていただきたいのですが、個人的に明日から地球のエネルギーが大きく変わるのでは、と感じています。その直前の調整でしょうか。
タイに行った旅レポをアップしたいのに、なぜかエネルギーは早く流れていて、タイからハワイへと移動してしまったみたいです、魂が流れた感じ。リアルな移動はしていませんよ~。
きのう、おとといと家のそばのショッピング・センターでハワイの男性のチャントと古代フラに触れたのです。そうしたら、いきなり何かにつながってしまって。ポイントは「古代フラ」なんだろうと調べているうちに、どうやら古代フラ関連で抑圧されたエネルギーがあるらしく、その集合意識につながってしまった様子。
古代フラというのは私たちの知っているあの「フラ」ではなく、さらに宗教チックな儀式のようなもの。これに関われるのは主に男性だったとのこと。そう、一つは男性権威に抑圧された女性性エネルギー。もう一つは西洋文化に抑圧されたハワイ文明や信仰などのエネルギー。古代フラは一時、西洋文化によってハワイから姿を消しかけていたそうです。今はもちろんそれが復活して、現代フラ同様大切な伝統文化としてハワイに根付いているんだとか。
この二つの大きな集合エネルギーにつながってしまった様子で苦しい、苦しい。ところがそのお蔭で、すぐにデトックスが起き、今ヒーリングの真っ最中。
ここでのポイントは「抑圧」。私はどうも「抑圧」をいけないものと捉えていたようで、まず「抑圧」との和解から始めました。「抑圧」が大きければ大きいほど「解放」のエネルギーも大きい。この理屈、おわかりになりますか。日本には『出る杭は打たれる』という言葉があるけれど、大きく打たれた杭はものすごい勢いでその反動をみせるチャンスをもらっているということです。私たち日本人は世界でも有数の抑圧民族です。なんでも我慢する。その我慢ゆえに、たくさんの病気を招き寄せてもなお。
ところが視方を変えると、その解放にはとてつもなく強いエネルギーが必要で、逆に言うととてつもない解放感を味わえるのは、強い抑圧力という「才能」があるからこそ。そう、日本人の抑圧力は、強い解放感を味わうための一つの財産だということ。うまく味方につけてしまえばいいんですね、「抑圧力」を。
こう思いながら抑圧と和解していたら、今度は「マナ」という言葉が浮かんできました。「マナ」とはハワイの概念。以前、なんとなく聞いたことがあるけれど意味はよくわからないままでした。さっそく調べてみると、なるほどヨーガの概念の「プラーナ」のことであり、中国の「氣」ともほぼ同じもののようです。日本の場合は森羅万象どんなものにも「魂」が宿る、という言い方をしたりしますよね。それと同じものがハワイの「マナ」概念です。
少しわかりにくいかもしれませんが日本にも「氣」の概念は入ってきています。例えば、「病は気から」とか「気が合う」とか「気になる」とか「気に障る」とか。「氣」と表記するとうさん臭いイメージにうつるかもしれませんけど、ようは「気」、「元気の気」です。ヨーガの概念でいうと、宇宙の生命エネルギーという表現になります。大体これと同じことを意味しているわけです、「氣」も「マナ」も「魂」、あるいは「霊魂」も。
宇宙、あるいは私たちを包括する何ものかの「エネルギー」のこと。
ここからは私の解釈なんですが、おそらくこの「エネルギー」は万物に宿っています、すべてに平等に。ところがその「エネルギー」をちゃんと活用できる命とそうでない命がある。その「エネルギー」を上手に活用するためには、その「エネルギー」にその命が同調すればいい、周波数をあわせればいいんです。
その周波数そのもののエネルギーの性質、特質は何かというと、それが「無条件の愛」。宇宙、あるいはすべてを包括する存在のエネルギーそのもの。条件付きでも制限付きでもなく、「無条件の愛」。「無条件」とは「すべてをあるがままに認めて受け容れること」、「すべてを肯定する」その作用、能力のようなもの。
私たち人間には脳があるので、どうしても条件付き、制限付きの愛に偏りがち。それをできるだけ「無条件の愛」に近づけるには、自分自身を無条件に受け止めること、抱きしめること、愛すること。そう、自分自身のあるがままを無条件に愛する、ということです。
自分自身を無条件に愛すれば愛するほど、私たちは、プラーナや氣、あるいはマナ、あるいは霊魂などの存在と同調しやすくなるので、結果それらの生命エネルギーが活性化されて、私たち自身の生命力が強くなり、それによって生きやすさも自然なものになる、ということ。
宇宙やプラーナ、氣なんて信じられない、だって目に視えないから。そう思う人も当然いますよね。それはそれでその人の感覚なので良くも悪くもなく、あぁ、その人はそういう考え方なんだ、ということです。もちろん生命エネルギーであるところの「プラーナ」「氣」「マナ」「霊魂」を受け容れられる人の方が意識が上、という意味ではありません。私たちの人生の課題はそれぞれなので、それぞれ感じ方が違ってあたりまえなのですから。
ヨーガをやっても私はプラーナはあまり感じられなかった。太極拳をやったらすぐに氣を感じました。ウソ偽りなく手から氣が流れていくのを感じました。あえて調べませんけど、確か中国の概念では「神気・しんき」と呼ぶんじゃなかったかと。
私は、「神」という文字は、「カミ」より「シン」の方がしっくりくるんです。多分、何か特定の存在というより、空気みたいな感じのものだと思っているから。
これら、「プラーナ」「氣」「マナ」「霊魂」は、表現の違いはあっても、かなり近い概念。厳密に言うと、プラーナと氣は違うものなんだとか。プラーナは肉体よりも広い身体までを包括した概念で氣は肉体だけ、といった説明をどこかで目にしたことがあります。ただ、その特質はおそらくほぼ同じなんじゃないでしょうか。
その特質は「無条件の愛」。それが生命エネルギーなのだから、私たちの命も「無条件の愛」で満たせれば、今よりもっと生きやすくなるということなんでしょう。その方法論は自分を自分で愛する、ということ。「ご自愛」という言葉がありますね。「あなた自身を尊重して、大切に慈しんで」といった意味です。
ここ、ここにつながりました、すべての生命エネルギーがうまい塩梅に機能するポイントとして。私たちすべての命に平等に備わっているんですよね、きっと、「無条件の愛」が。
私たちは言葉だけが先行しすぎて、どうもそれらが腑におちないままわかったような気になっていることが多いようです。自分自身への愛=無条件の愛=宇宙、あるいはすべてを包括するもののエネルギー。やっと腑に落ちました。
今回タイに行って「仏教」に触れて、タイは仏教国なんです、そこで私の感じている「仏教」との違和感を整理してきました。その流れに乗って魂は、ハワイの信仰、ハワイは基本自然信仰なんですが、そこでの違和感を調律し直したみたいです。私たちの意識は瞬時に旅をするんですね。
執筆し始めた頃、微熱があったんですが、ほぼ普通に戻りつつあります。そうそう、タイも仏教国になる前は精霊信仰だったらしいですよ。一見異なるようでも、みんなどこかに接点があるのかもしれないですね。